どこか遠くでサイレンが鳴っている。
もう時間がないのだと思う。あと五分なのだとも思う。何事かわからないが、自分は追いたてられている。重い、黒革の鞄を両手で下げて、体のつりあいをくずしながら運んでいる。いったいどこへ行けばよいのか。いったい何であと五分なのか、それすら自分にはわからない。ただ追われるように、逃げるように、街の中を細い路地を、小石のころがった道を、あくせくと歩いている。
鞄のあまりの重さに、自分はとうとう道の傍らに鞄を置いてその上に腰掛けて休んでいる。見上げれば、巨大な白い雲がまぶしく輝いて視野の三分の一ほどを占めている。むくむくと内部から沸き立つようなそれを見て、自分は突然に嫌悪を覚え目を落とす。汗のしずくが一滴、あごの先から落ちてゆく。そうだな。暑い日だったのだと思う。夏だったのだろうか。汗は次から次へと、ぬぐってもぬぐってもきりなくにじみ出てそではすっかりしめってしまう。
ふと気が付くと、まだ小さな子供が自分のそばに立っている。自分が歩き出すとその後をついてくる。どこまでいってもついてくるので、自分は仕方なくその子供を背負った。だが相変わらず時間はない。鞄を持ち子供を背負いながら、強い日差しの下をあてどなくさ迷い続けている。しばらくして不意に子供が口をきいた。
「どこに逃げても助からないのだね。」
背中に奇妙な圧迫を感じながら、自分はそうかもしれないと思った。
「もうすぐなのだね。」
そうかもしれなかった。
「あれはいつのことだっだのかね。」
そう、いつのことだっただろう。あの時も、こんな日の、こんな夏の朝だったのかもしれなかった。
「八月の六日だったね。」
そう言われればそんな気もしてきた。
「朝の八時十五分だった。」
そうだ、確かに朝の八時十五分だった。
こう思ったとたん自分はいつかの八月六日の朝八時十五分に何かが生じていたことを明確に認識した。だがそれが何なのかを思い出そうとすると強い歯止めが働いているようであって、そこから先は何も思い出すことはできなかった。
突き刺すような強烈な光の下で、街は黒と白の強いストライプの影絵と化している。秒針のない腕時計は相変わらず動いているのか止まっているのかわからない。あたりには何の音も無かった。全てが静止していた。
自分は芒然と立ちすくみながら、やがて来るであろう何かを待っていた。もう子供は何も言わなかった。
背景雑音のサイレンを透かして、小さく飛行機の音が聞こえてきた。それはやがて大きくなってゆく。
ゆっくりと、ゆっくりと。