気がつくとあたりに人がいなくなっている。街を歩いてみるが誰も見当たらない。森閑とした街並にただほこりっぽい風が吹き、信号が点滅している。
空はいつもの通り晴れており、日差しは適度に暖かい。この陽気はきっと五月頃なのだろうと思う。そこここに見える草の葉がまだみずみずしい。人がいなくなったことを除けば、世界には何の変化もないようにである。
どの角を曲がっても何の変化も起きぬ。しばらく歩き回って腹もへる。自分は金も持たずに食堂に入り、イスに腰を降ろした。しばらくたつが、やはり何事も起こらぬ。注文も取りにこない。茶を持ってくるでもない。店は薄暗いままで、何も動かない。
しばらくぼんやりする。ぼんやりしながら、何が起きたのか、やはりぼんやりと考える。誰もいない。そして信号が点滅している。世の中は暖かい。道の隅にはタンポポが咲いていたような気もする。静かな世界だ。問題は何もない。腹が減ったことを除けば、それほど悩むこともないのかもしれないと思った。だが、この店には誰もいない。
仕方がないので店を出ようとすると、とたんにけたたましく電話のベルが鳴り出す。自分は無意識に受話器をとっている。声がする。女の声。早口で天どんを二人前注文し、一方的に切れる。
終わってから自分は思案する。自分はうかつにもこの店の主人になりかわって注文を受けてしまった。なんとかしなくてはいけないのかもしれない。この分では主人も現れそうにない。そんなことを考えていると奇妙な考えが浮かんだ。
はたしてこの店の主人とは誰なのだろうかいや、この様子では過去現在未来にわたりこの店の主人が存在したということもはなはだ疑わしいではないか。
そう考えてふと気づいた。
自分はもしかすれば、もしかすればこの店の主人ではあるまいか。この店はこれまでずっと自分を待ち続けてじっとしていたのではないか。そういえばこのあたりはずいぶんなつかしいではないか。自分は憶えているのではないか。こう考えれば考えるほど、この思いは現実味を帯びてゆく。
白衣に着替え、どこからか材料をとり出して天どんをつくり始めた自分は、たった一人で薄暗い調理場にたたずみ、味見をしかけて味も臭いもしないことに気づきなぜか苦笑する。
笑い声はしだいに大きくなり、がらんとした灰色の店いっぱいにうつろに響きわたる。