第九夜


 男が夢を見る。

 街の中を歩いていると道がわからなくなる。丁度近くに通りかかった娘に道を尋ねると丁寧に教えてくれ、案内までしてくれる。娘に礼を言ったところで目が覚める。
 次の晩、また同じ街の夢を見る。歩いていると昨晩見た夢の中で道を尋ねた娘が通る。娘も彼に気が付き、あいさつする。そのあいさつのしぐさが妙に男の気を引いた。よく見れば、美しい娘である。どういう顔かたちかはよくわからぬが、美しい娘であるという気がする。細かく確かめようとしてもはっきりしない。だが、その娘が美しいことだけは男にはよく判った。しばらく話をしているうちにその声も、気だても良い娘だとわかる。いずれも細かいところは判らないが、全体のイメージが何ともいえず暖かい。すっかり親しくなったところで目が覚めた。男は不思議な気分になる。

 昼間、平凡な一日を過ごした男は眠るときにかすかな期待を抱いていた。するとその晩、また同じ夢を見る。いやに立派な身なりをし、ネクタイなどもして喫茶店にいる。するとあの娘がいそいそとやってきては、お待ちになったという。娘もなかなかのおしゃれをしている。どこがとはいえないが、そんな気がしている。男は何やら分からないうちに、いや、と答えそれから二人して映画にゆく。食事にゆく。男はしだいに幸せになってゆく。

 そんな夢を毎日男は見た。夢の中で幸せになればなるほど男の現実の世界は色あせてゆく。しょせんは夢であると解っていてもどうも妙な気分になりかける。どうしても自分の目の前の灰色の世界を現実と認識しなければならない理由でもあるというのだろうかと思う。自分の世界は自分の認識の中に在る以上どうしようと自分の勝手だろうと思う。しかし思うだけで、男はそこから先へ進むことは出来なかった。

 男はそれからしばらくの間、昼と夜の二つの世界で生活していた。そして昼の現実はさらに色あせてゆき、夜の夢はますます彩やかなってゆく。男は惑い始める。

 ある晩とうとう、男は夢の中の娘と所帯を持つ約束をしてしまう。夢の中で何をしようとそんなものはなんでもないと解っていても男は気にしてしまう。何かとんでもないことをしてしまったようにさえ思う。男は悩んだ末、もう灰色の現実には戻らない覚悟を決めた。

 ところがこの晩、男は仕事が重なりとうとう徹夜をした。ろくに眠るひまもなく、また次の仕事にかかり、それが三日三晩続いた。男は疲れきり、もうこちらの世界に戻ることもないだろうと考えて薬を多量に呑みこんだ。そして眠りについた。

 いつもの夢の中と比べてどこか違っている。街が変わっている。前と同じ街であるのはたしかなのだが、どこかがおかしい。古風であった家並はどこかに消え、その代わりにアパートやらビルディングやらが立っている。いったいどうしてしまったのだ。男は走り回るがいっこうに解らない。あの娘はどこにいるのだろう。どうしているのだろう。

 近くにいた老婆にこんな娘を知りませんかと尋ねる。するとその老婆がつと顔をあげて、それは私ですという。驚いてまじまじと見ればなるほどあの娘の面影がある。たった三日三晩あちらの世界で過ごしただけでこの世界では何十年もの時間が過ぎ去っていたのだった。老婆は涙を流しながら、自分はあなたをずっとずっと待っていたがとうとうあなたは来なかった。そして自分は別な男の妻になってしまったのです、と言う。男は呆然とし、ふらふらと歩き回り、とうとう夢と現実の谷間に身を投げた。

 男は三日後に現実の世界に意識を戻したが、髪はもう何十年も経たかのように白く染まり、もはや何を尋ねられても返事をしなかったという。

 そういう悲しい話を夢の中の本で読んだ。




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