KARTE 3


メモリー






 部屋の中の人々はざわついていた。
 ヴァットの中には、一人の老人が横たわっている。目を閉じて、静かに眠っているようにも見えるが、その体は、いつものヴァットをずいぶんと大きく見せるほど小さく、やせ細っている。死期がもうそこまで迫っているのだということは、医者でなくとも一目見ただけでわかる。
 呼吸、脈拍、共に弱っている。脳波も、全般的に弱まりはじめている。賦活インパルスでとりあえず補正しているが、じきに限界に達するだろう。なんとかしなくてはならなかった。予想死亡時刻まであとわずかである。それとて完全に信頼すべき値ではない。それは、その時間における生死の確率を表した値で、63%以上になった時点を「死亡時刻」と見積もる。しかし人間の死とは、元来、確率で表されるようなものではない。たいてい人間というものは、死人以外は皆生きているものだ。
 私はモニターをにらんで、必死にキーボードを叩く。画面が高速でスクロールされてゆく。流れるデータを私の眼が追い、とらえ、矢のように次々と意識に送り込んでくる。 記憶移送のためのシステムの立ち上げには、早くともあと五分ほどかかるだろう。それまで、確実にこの老人の命がもってくれる、という保証は無いと言ってもよかった。私のところに回ってくるのが遅すぎる。システムを使用可能な状態に仕立てるまでには、通常は患者が設定されてから三十分以上かかる。それを十分少々にまで短縮して行っている。この間に老人の生命がなくなり、記憶の保存がうまくいかなくなったとしても、私を責めてほしくはないものだと思う。
 老人の頭部には、ヘッドギヤーがかぶせられ、そこから何百というラインがシミュレーターに向かって延びている。私はヴァットには寝ておらずに、外にいたままでキーボードを叩いている。
 周囲には、この老人の家族や親類が集まり、落ち着かない様子でヴァットの中の様子をモニターで眺めている。
 いま私は、この老人の一生の記憶を、編集してメモリーに移すという作業を行っている。編集はコンピューターが行うのだから、私の仕事は、人間とコンピューターとを結びつけることだけだ。手間がかかるのはそこだけで、コンピューターの実働時間はごく短時間ですんでしまう。
 人間の記憶は、遺伝情報と違い、代々にわたって受け継がれることはない。個人の記憶は閉じており、その個人が死んでしまえば、失われる。これが無駄ではないのか、ということに人々は気がつきはじめていた。
 人間の記憶が代々に渡り受け継がれてゆけば、人間は進歩の速度を早めることができるのではないか。人間の一生は有限であり、その有限の時間内に取り入れることの出来る情報量も、また有限である。しかし、例えば科学の最先端についての個人の研究者の知識は、その専門の狭い範囲に限られている。時代を追うごとに狭くなってゆく傾向すらある。ところが、将来の発展をめざすためには、その前に現在の状態の把握をしなくてはいけない。その前には、それ以前の積み重ねを一つ一つ理解していかなくてはいけない。その積み重ねの情報量が多くなるにつれて、人間の記憶の内部に取り込まれる情報量の限界によって、必然的にその横幅は狭くなってゆく。
 やがて、その過去の積み重ねの情報量が、人間の一生の間にとり入れることの出来る情報量と釣り合ったときに、完全に文明の発達は停止する。人間は、針の先のような専門分野においてさえ、その進歩に必要な過去の蓄積を理解するだけで一生を終えてしまう。そこから先には、進歩は見られない。
 コンピューターによる記憶注入教育も、かつては行われた。しかし、記憶様相には個人差がある。一律に規格化されたコンピューターでの記憶注入は、その個人の記憶特性によっては適合しないことがある。また、発達初期からそうした自動的な記憶注入教育を受けた人間は、学習意欲をもたなくなることも多い。
 一方、親と子のあいだの記憶特性は他人のそれに比べて共通項が多い。親子間の記憶移送には損失が少ない。親の知識を子供が受け継いでゆけば、無理のない蓄積が可能である。
 そのために、心理技術を用いて個人の記憶をその子孫に受け継ぐことの出来るようなシステムが開発された。これを用いれば、人間の記憶は積み重ねられてゆき、時代と共に進歩する可能性をもつことになる。
 実際のシステムでは、記憶は編集され、その際に感情や個人特有の価値観を含むものは削除されている。百科事典のようなデータベースを、個人の記憶領に入力し、自分の知識のように使うことが出来るようになっている。これを、百代繰り返してもメモリーは埋まりそうにないほど、人間の記憶には余裕があるという。
 システムの駆動準備が終わる。まにあった。老人は未だ生きている。
 間髪をおかずに、私は、システムを駆動する。
 人々が、オペレーションが始まったということを知り、緊張する。沈黙があたりを支配する。
 いま、ラインの中には、この老人の一生の記憶である、莫大な情報が流れている。それが、取り出してみれば、ほんの小さなメモリーに収まってしまうのは、なんとも言えない。しかし、どうとらえようと、それは事実だ。それ以上でも、それ以下でもない。
 ざっと数十秒であった。全ては終わった。
 私は、移送のチェックを行うと、編集用のコンピューターを除いて、他のシステムを休止させた。
 人々の間に安堵の息が漏れる。緊張がほぐれ、笑顔が戻ってきた。あっけないものだとわかったのだろう。後は、編集の終わったメモリーディスクの受け渡しがあるだけである。コンピューターにとってはたいした仕事ではない。時間はかからない。
 これでこの老人の一生は無駄にはならなかったのだ。人々はこの記憶を受け継ぎ、それをステップにして新たなる何かを生み出すことができるだろう。大変に建設的であり、結構なこと……
 どこかが妙な気がする。
 確かにこれでいいのかもしれない。いつもの事ではないか。この人間の一生は、こうした確かな形となって、人々の心に残る。決して忘れられることもなく、いつまでも。構わないはずだ。どこがおかしいというのだろう。
 ---- ここには、相変わらず、死を目前にした老人が一人、横たわっている。その事実には何の変化もない。記憶情報がどうであろうと、「彼」の生死そのものには何の関わりもなかったのだから。だが、もはや人々は、ヴァットの中の老人には興味をもっていないように見える。こころなしか、余裕がうかがえる。足早に立ち去る者もいる。そう。いつものことかもしれない。だが、死に直面した個人と、そうでない者達との関係とは、昔からこんなものだったのだろうか。 ざわめきの中、私はしばらく考え込んでいた。
 突然、アラームが点灯する。
 確認する。老人は呼吸を停止している。脳波計、心拍計も共に水平になっている。直接彼の大脳に問いかけても、何の返事も帰ってこない。規定通り、3回同じ手順で視・聴覚野にキューを送り、全ての脳内センサーに対する反応をみる。
 センサーはノイズで揺らいでいるだけだ。無信号と見ていいだろう。
 私は静かに告げる。
 「御臨終です。」
 だが、ざわめく人々の心の中にまでこの声が届くとは、やはり私には思えそうにない。いつになっても。


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