KARTE 6


退行





 on“DSMG-IX”{index =Γ}
 "mental deficiency child, full syndrome present."     
 モニターは静かにそう示している。
 どういうことだろうか。
 私は頭を抱えこむ。
 治療したはずのクライアントが元に戻っている。
 “MA=8y+7m (103m), IQ=50, DQ=55”
 生活年齢8才7ヶ月、現在の知能指数50。発達指数55。
 単にこれだけのデータを与えられただけで判断するならば、即座に発達遅滞という診断を下し、オペのためのデータを収集し始めるところだ。
 だが、私には手も足もでない。

 初めてこの子供を見たのは、二年前のことだった。
 真っ先に気づいたのは、そのニューロンの尋常ではない老化だった。まるで子供のものとは思えなかった。弱っている。どこかに構成上の異常が存在し、無理がここに現れているのだろうと考えた。
 生活年齢に比べて、精神発達が異常に遅れていた。私は精神発達遅滞と判定した。ニューロン網のからみあいの様子、拡大したときのシナプスの発達などを観察した結果、感覚器官からの情報の散逸を原因とする構成不良であろうと思われた。サンプルを流した結果、産出損失、媒介損失が記録される。各一次感覚野の周辺にそれに対応した代謝偏異が確認されていた。これがCNSの老化の原因なのか、それとも老化の結果がこの偏異なのか。因果関係まではわからない。
 だが、成育歴に目を通したときにおかしなものを感じた。このクライアントは正常と異常の範疇を往復してきていた。IQ指標で(これ自体、信頼値が高くはないのだが)45から130の間をさまよっている。時間的振幅は数か月から二年まで、定まっていない。ひどいときには一週間で50以上の低下を示している。原因は不明。
 若年性痴呆だろうか。だがそれにしては妙だ。
 そのときは生理的な面から探ってみた。
 シナプスを拡大する。ニューロン自体の域値の上昇はそれほどでもない。だがシナプス後膜のレセプター密度が低いために結合係数は全体的に低い。サイクリックAMPおよびカルシウムイオンの濃度も正常状態よりも低い。その結果シナプスコンダクタンスが低く抑えられている。入力された情報量に対して出力が弱すぎる。これでは一時的にネットワークが形成されたとしても、すぐに廃用萎縮してしまう。試験的にシナプス後膜発芽因子を投与。結合係数が上昇する。膜機能は正常だと見なせる。だが反応は鈍い。その結果、頭頂連合野、前頭連合野における情報構造が未発達。
 軽度の代謝偏異による感覚器官情報の散逸が原因の精神発達遅滞と判定。直ちにオペを行った。この手の修正は早ければそれだけ効果が大きい。
 代謝経路に干渉し、正常に近付ける。外部からの遠隔操作で、不足している酵素の分泌経路を再構成する。モード変更。意味事象の連合を行い、いくつかのノードを人工的に設ける。各要素間のラインを様々な角度からの偏向連想によって展開してゆく。ネットワークが規定の密度に達した後、そこから自然に発達してゆくためのパラメーターを設定する。
 あらためてサンプルデータを入力する。からみあった情報構造体の中にそのデータが分岐、融合し、多重に処理されてゆくのが確認できる。予想された部分への固定が行われる。一通り標準反応の生起を確認し、オペレーションを終了した。
 その後何回かにわたって発達の様相を確認したが、驚くほどの速度で正常に追いついていった。3か月後には正常を追い抜き、IQ指標で120以上にまで達した。
 それで治療は終了したものと私は考えた。
 一年ほど前のことだ。

 それがこのありさまだ。
 "mental deficiency child, full syndrome present."
 ---- 精神発達遅滞児 全症候群 残存状態 ----
 フル・シンドローム・プレゼント。
 この言葉の重み。
 私はもうずいぶん長いことモニターをにらんでいる。
 内部から見た様子では、以前とまったく同じ状況に戻っていた。幼児のそれとよく似ている。情報の絶対量が少なく、情報を受け入れるだけのネットワークもできあがっていない。嵐は穏やかなものだ。きめの荒い、おおざっぱな処理様相が意識層全体に渡って広がっている。
 以前に行った修正治療は効果を持たなかったのだ。どこか根本的な部分で見落としをしている。そこまではわかっている。それがどこなのか、今の私にはわからない。
 モニターを続けながら代謝経路の洗い直しを行う。分割した意識の下で、いくつものカルテと照合する。
 酵素分泌量が修正後の正常機能の恒常保存についていっていない。だがわずかな不足だ。ニューロン内部の、粗面小胞体周辺の機能不全であろうか。スパインの反応にもやや鈍いものが感じられる。しかしこの程度のわずかな差は、正常者にもみられるものだ。修正すべき基本パラメーターは他にもいくつかあった。だがどれをとっても、このような大きな発達遅滞の原因になるようには思えなかった。
 おかしい。
 とりあえず、それらを修正するためのオペに入る。
 これで機構的には正常に戻すことができる。その限りにおいては、発達してゆくことが可能なはずだ。
 だがどこかおかしい。そう思えて仕方がない。だがはっきりと異常が示されていない以上は、迷っていてはいけない。
 2時間ほどのショートオペになる予定。もっとも、予定は決定ではない。いつものことだ。

 あれから4週間が過ぎた。
 いま、クライアントはヴァットの中におり、私は彼女の精神の内部にいる。この前の状況とはまったく異なっている。同一人物とは思えないほどだ。
 情報構造体はかなり大きくなり、処理様相も複雑、多様化している。事前に施行したWISC系のIQプルーヴでは126という数値を示した。あっというまだ。数週間のうちに、それまでの圧倒的な遅れを問題なく取り戻してしまう。こんなことがあるものだろうか。
 以前見たときの、ぼんやりした視線の定まらない様子とはまったく異なっている。知性的な顔立ちと言ってもよい。輪郭まで変わったように思えるのは、気のせいだろうか。瞳の中に、以前にはなかったはっきりした意識の働きがうかがえる。動作も素早い。とてもこの子が数週間前まで知恵遅れだったとは思い難い。いくつかの口頭での質問に対しても遅滞なく答え、質問が易しすぎるという素振りさえ見せた。
 問題はどこにもなかった。
 本来ならばここで治療を打ち切ってもよかった。
 だが、私には依然として不安感が残っていた。
 発作的な退行の原因がわからないかぎり同じことを繰り返すだけだ。おそらくまたいつか再び、このクライアントは発達遅滞の様相を示すことになる。どうすればよいのだろう。
 退行の原因を探る方法はないのか。
 子供が退行を起こすのは、必ず欲求不満場面である。このクライアントの退行現象もそこに問題があるはずだ。
 ライフ・シミュレーションを行い、反応を追跡してみようと考えた。
 模擬生活体験。
 クライアントの意識を部分的に覚醒させる。
 記憶内部から彼女の日常生活の断片を取りだし、概念的に再構成する。海馬方面への記憶ラインを遮断して現在意識系を独立させ、同時に閉鎖する。次にその空間に疑似感覚データを流し込む。意識の中に、あたかも生活場面の一つの状況を再現したようにみせかける。その内部で挿入データをコントロールし、場面による変動とクライアントの反応の変動を記録する。
 テスト基本項目にあるのは生活様式、対人関係、知能的な問題、欲求不満場面、など。それらの項目場面を、クライアントの日常に重ね合わせて提示してゆく。
 一場面当たりのシミュレーションは、実際は数秒にすぎない。クライアントは、その時間の中で初期状態から場面の展開までを主観時間として感じている。展開の方向によって短いものは数秒、長いものでは数ヵ月にわたる。その中でのクライアントの意識の展開軌跡を多次元面上に追う。
 一通り、朝起きてから寝るまでのシミュレーションを行った。日常生活場面、対人関係に、潜在意識の中だが、強度の恐怖感、劣等感の痕跡がみられた。現在は不活性であり、原因も解決もされているため大きな問題にはならないだろうと思われた。
 知能的には問題はなかった。パラメーターを変えながら、やや課題の質を高くしたが、相当のレベルまで解決できる。9才段階はもう突破してしまっている。
 だが、おかしな徴候が観測できた。
 課題解決場面において達成困難に陥ると、情緒面が大変に不安定になる。その影響が、不思議なことに、精神深度の深い部分にまで、異常な速度で波及してゆく。通常ならばレベル12前後に止まるはずの動揺が、18ないしは20にまで及んでいる。リアルタイムでモニターしている情報構造体にも、同じ内容がさらにはっきりした形で観測されている。緻密に構成されたネットワークに微かな揺らぎがみられた。
 このクライアントは、欲求不満耐性が低い。
 このことは予想外ではなかった。こういった子供に対しての親のケアは常に若干の多与傾向にある。だがそれがこの症状とどのような関連を持っているのだろうか。今一つはっきりしたものが見えてこなかった。
 欲求不満に焦点を当て、パラメーターを変化させて様子を見ることにした。
 最初は抵抗を弱くしておいて、施行数に応じて高くしてゆく。最初の数施行はとくに問題はなかった。生活場面における軽度の欲求不満を感じさせるパターンだ。徐々に抵抗感を上げてゆくと、しばらくして特有の反応がみられるようになった。対象事象の周辺の意識情報が不安定に揺らぐ。要素が落ちこんで安定している等ポテンシャル曲面上の情報的なくぼみが、根底から突き上げられる。器質面でのモニターにはニューロンのランダムな励起が観測された。背景雑音が異常に高まっている。
 施行が進むにつれ抵抗パラメーターは上昇する。それに呼応するかのように、その得体の知れない背景雑音が激しくなってゆく。
 クライアントの意識上にある種の負のイメージを伴った何かが現れる。これは何だろうか。私は意識の一部をその解析に向けて分割した。
 恐怖感。威圧感。不安。その上での無力感。
 具体的な対象は何か。さらに絞りこんで行く。
 対人恐怖。拡大する。教師。教師の叱責に対する、拒絶反応。学校の教室場面自体が一つの心理的外傷と化している。このクライアントの持つ強い劣等感の根源は、学校場面における欲求不満に発しているらしい。実際、教室という場面において絶対者と化す教師の叱責は、生徒にとっては恐怖の対象以外の何ものでもない。叱られたところで全力を尽くしている当人にはどうしようもない。学校を次々と変わってきていることから考えると、友人ができることもなかったのではないか。つまり周囲の人間は彼女にとってはみな敵に近かった可能性が高い。
 そしてその繰り返しの中から、拭うことの出来ない対人恐怖、および劣等感が生まれてくる。幼い頃に作られたその感覚は、発達のあらゆる場面において影を落とすことになる。このクライアントにおいても例外ではない。
 しかし、これがあの退行に具体的にどう関わっているのか、つかめていない。
 一方で、シミュレーションの内部でのデータの流れ方をチェックしている。
 入力された情報が無数に分岐した経路をたどって処理されてゆくのをモニターしている。全体像ではおおまかすぎる。拡大。さらに拡大。認識範囲が絞られた。これまで省略されてきた微細経路がはっきりと現れる。
 その中で一つ、通常の情報の流路とは異質なものを感知する。普通はこの様な部分にはないはずの回路だ。
 フィードバックループ。
 CNSの生理的構成と意識上の反応との連結回路だ。それが異常に強い結び付きを示している。実際には微かな電位変異に反応して高速で変形する蛋白質分子の介在があるようだ。
 普通の情報処理では、ニューロン回路網から意識上表現へ、という方向性を見せるはずの機構が、どういう理由からか、その逆の方向ベクトルを大きく示している。意識上での変化がニューロンネットワークの構造に高速で反映される。ある一定以上の速度をとるとすれば、そのフィードバックの速度と相乗し高能率での学習を可能とする。
 これであの急速な発達の理由がわかる。一般に、一つの事象において得られた有能感は、他の事象にまで普遍化されやすい。つまり自分ができると思えば、その通りに優等生になってゆく。自分で自分を引っ張りあげてゆく能力だ。 だが、それではあの退行の原因は何なのだ。
 シミュレーションは要求水準がかなり高いレベルにまで達してきている。これ以上、異常が観測できなければそろそろ終了してもよいだろう。
 そこで、奇妙なことに気がついた。
 もしも、このクライアントが有能感でなく、無能感を抱く事態があったとしたら、退行欲求を抱いたとしたらどうなっただろう。もし、何をやっても自分は無力で、もういやになってしまったら。その延長線上には、どういった事態が予想されるだろう
 しまったと思った。
 すぐにシミュレーションを中止しなくては。このままではいけない。なぜなら ----
 その時、モニター上のあらゆる場面に次々と非常事態のアラームが示され始めた。すべてのモードにおいて、何かが起きる前の一種の静けさが感じられた。最優先で、シミュレーション機構に割り込もうとする。すぐに止めなくては危険だ。
 場面は、クライアントの不安要素が提示された、その最後の瞬間。凍りついた世界が、微妙なバランスを保っている。彼女は上の年齢の課題を割り当てられ、それができない状態で、学校場面でのコミュニティ・プレッシャーを受けている。
 プレッシャーレベルが上がる。急速に上がっていく。異常な上昇率だ。やはりトラウマ場面での耐久性が異常に低い。しかし、この上昇率は……
 その他のパラメータにも影響が見えはじめる。構造異常を示すセンサの深度レベルがなめらかに下降していく。
 いけない。
 全力で優先ラインのシミュレーターに割り込もうとするが、なかなかプロテクトが解除されない。反応が鈍い。間に合わない。
 アラームが叫びはじめるが、既にときは遅い。
 世界が揺れはじめる。
 何かが臨界点を越えた。
 雪崩のようだった。
 巨大な情報構造体が見る見るうちに崩壊し始める。サポートしていたラインの群れが存在空間ごと消え失せてゆく。記憶が消去されてゆく。形をとっていた意味が変質し、消滅してゆく。有機体観察モードでは、シナプスの一つ一つが萎縮し、ニューロンのからみあいが解けてゆく様子が観測できた。世界があっというまに無に帰してゆく。
 これだったのだ。クライアントのこの不自然な生理心理的なフィードバック機構が原因だったのだ。
 欲求不満に表面的な退行現象を起こしたクライアントは、その心理状態をそのままCNSの再構成機構に送り込んだ。そしてCNSはその状況を忠実に再現するべく、変化をリアルタイムで行ってしまう。彼女は幼児期の存在に戻りつつあった。この後に残るのは前と同じ、発達遅滞の様相を示すクライアントだけだろう。
 自分の能力を自由に規定することのできる人間。自己概念の認識を自己そのものに物理的に反映させることができる人間。自分が有能感を抱けば、その通りの能力を発揮することができる存在。
 内的超能力。
 ある意味では彼女は新しい存在なのかもしれない。物理的な『脳』に対する『精神』の優位性をはっきりした形で示した存在なのだから。
 だが、この存在にも致命的な欠点があった。人間が成長してゆくには、いくつもの壁を越えてゆかねばならない。そしてその欲求不満体験とその結果を記憶して、初めて次の状況に対応できる。しかしこのクライアントは、通常の人間が戻ろうと願っても戻れない過去の世界へ本当に戻ってしまう。したがっていつまでたっても欲求不満に対する耐性は育たない。彼女は永遠に子供のままだ。そして成長しては退行し、また成長しては退行するというサイクルを巡り続ける。最大の成長は10歳前後ではないだろうか。それ以上の年齢では、社会的に欲求不満を経験することが多くなり退行する確率が高くなる。今は未だ成長の限界を越えていないがこの先の状況は厳しいものだ。正常な人間との差は年ごとに開くばかりだろう。
 ようやくCNSの異様な老化現象の理由に気がついた。この変形は神経細胞に無理な負担をかけすぎる。生物学的なシステムとしてはまだ不完全なのだ。このままでは彼女のCNSは近い将来にその特有の可塑性を失ってゆく。そればかりか、ニューロン自体が変形に耐えられずに機能しなくなる可能性がある。いや、それはもはや時間の問題ととらえてもいいのではないだろうか。
 これ以上崩壊させたくない。雪崩を止めなくてはいけない。今すぐにこの崩壊を止めなければ、彼女が普通児に追いつくことはできないだろう。この次という機会はおそらく存在しないのだから。
 しかし、この状態からどこまで介入できるだろうか。自信はない。そしてこの崩壊を食い止めたところで、このクライアントの真の治療にはほど遠いのだということもまたわかっている。
 それでも私はやらねばならない。
 恐怖感とそれに伴った絶望感、無力感がクライアントの心を覆い尽くしてゆくのが感じられる。叫ぶ気力さえ、もはや失われている。この子には精神的ダメージを与えてはいけなかったのだ。君は本当はできる子なんだよ。君は本当はできる子なんだよ。最後までそう言い続けなくてはいけなかったのだ。
 リアルタイムでデータを抽出させ、オペレーションのプランを立てさせる。のろのろとシステムが立ち上がってゆく。遅い。待ってはいられない。
 山脈のような巨大な構造体が溶けるように崩れ、流れ落ちてゆく。私はその中に飛び込んでゆく。
 幾万、幾億の、萎縮するシナプスにインパルスを叩き込み、無数のラインを押さえ、タイミングを同期させて開閉し、百分の一秒毎にレセプター密度をチェックし
 いつもの事だという気がする。
 どうしてこんな職業を選んだのだろうか。
 一瞬、意識の裏をそんな思いがかすめる。
 わからない。その記憶は巧妙に遮断されており、エキスパートである私自身にも、それに触れることはできない。ただわかることは、そのときの私自身がその状態を望んだということだけだ。そのとき私に何があったのか。
 ぼんやりした思いを打ち砕くように、第1次防衛ラインが軽々突破される。荒れ狂う海。均衡状態が破れたのだろう。崩壊はゆっくりと確実に進んでくる。ようやくオペの計画データが送られてくる。立ち上げが遅すぎる。もう一時間も過ぎたような気分だ。実際には数秒しか過ぎていないのだが。
 予想時間、4時間。そのままオペレーションに突入。
 クライアントの意識上には、単調なメッセージが繰り返し流されている。これがもはや無意味でなければよいのだが。
 ---- 君は本当はできる子なんだよ。君は本当は ----
 嵐がまたいちだんと激しくなったように、私には思える。


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