KARTE 7


トロイメライ





 単調に揺れる草の間を抜けると、視界が開けた。
 目の前には、黄金色に輝く大地が広がっている。熱せられた土の香り。乾いた、暑い風が、体をつつんでゆきすぎる。
 ようやく、暑さを感じとる。
 見渡せば、はるか不安定に浮き上がった地平線。どこまでも透明な、不思議な濃密さをともなった大気が、世界を覆いつくしている。強烈な光の下で、所々に黒々とした影を落としているのは、生気のない草群。遠くに何かの木が一本、天に向かってのびている。
 地面の様子がはっきりとわかる。視点の低さに、片隅の何かが一瞬、違和感を覚えるが、すぐに気にならなくなる。
 これほど地面が豊かな表情をもっていることに、日常には気が付くことはない。二本の足で高みから見下ろす人間には決して知り得ない世界だ。わずかな土地の起伏が、この視点ではそのまま目の高さにやってくる。平地といえど、細かいところではかなりのアップダウンがある。それらを私は、自分の足で一つ一つ乗り越えてゆく。
 どこからきたのか、不釣合なほど大きな石が、ぽつんと、日の下で灼けている。その陰で小さな植物が、菊に似た、薄黄色い花を開いている。雨は長らく降っていないのだろうか。花もすでに萎れかけている。乾いた花びらが微かな風に散ってゆく。ところどころに目の前を横切ってゆく、蟻。機械のような、黒い光沢の有機質。引きずられてゆく、干からびた虫達。
 私は、ゆっくりと進んでゆく。
 不意に地に流れる己の影に気づく。地についた4本の肢。丸い頭に、尖った耳、そして左右に張り出した、幾本かのひげ。
 猫の視点に立っているのだとわかる。
 この猫が、今現在どこにいるのか、私にはわからない。この目の前の風景がどこか乾いた、ステップか砂漠に近いようなところらしい、ということが推測できるだけだ。むろん、調べればわかるのだろう。が、その気にはならない。どこでも良いのだ。私にとって、そこが知らない場所ならば。
 この猫は、どこかのメディカルで、中枢情報の抽出実験用として飼われていたものらしい。私が拾いあげたとき、腹部のコネクターに気づき、その品位に驚いたものだ。メディカルクラスAA。金額的にも安いものではない。ネットワークを通じて落とし主を探したが、結局、現れなかった。
 猫は嫌いではないが,飼っているような暇はなかった。一分が惜しい仕事だ。だが、このまま放り出すのも、何だな、と思った。
 そこで、私はその猫にちょっとした細工をさせてもらった。大脳皮質に張ってあった人工的なネットに、そこからデータを抽出できるようなマイクロソフトを乗せた。そして、アウトプットをマイクロウェーヴラインに乗せ個人回線につないだ。さらに意識層に通じる有機ROMの一部を改変し、「旅」の概念を入力して、猫を解き放った。
 それ以来、この猫は、気の向くままに歩き続けた。私がシステムを通じて入り込むたびに、猫は違うところにいた。ただ、オペの影響で代謝のバランスやリズムが狂っているためか、夜行性の特性が失われており、いつも夜は眠っているようだったが。
 猫にはすまないことをしてると思う。
 私は、ときおり通信衛星経由でこの猫に入り込み、休息をとっている。常に限界まで自己を解放する仕事に追われる私は、この猫に自分の願望を投影しているのだろう。今の自分とは別の、もう一人の自分を、猫として、たった一人で旅をして巡る。遠い、遠い、夢なのかと思う。
 逃げなのだ。わかってはいる。だが人間の心を扱うカウンセラー自身もまた人間だ。悩みもある。ありふれた夢も持っている。何らかの形で効率よく休息をとらなければ、変質しかねないのはほかならぬ私自身だ。もちろんスーパーバイズは受けてはいるが、それだけで全てが解決するとも考えていない。
 私は疲れている。だからこそ、逃げなければいけない。積極的な解決法ではないかもしれない、と思う。
 単調な景色が続く。暑さは相変わらず私を取り巻いている。眼は圧倒的な光量のために、細く絞られている。立った耳は、周囲の音をもらさず集めてくる。風が草をそよがせる、かすれたささやき。はるか遠くをゆきすぎる砂埃。やわらかな自分自身の足音。
 猫の意識野は、狭く、そして淡い。過去は霞の彼方にぼんやりと存在するだけ。そのことを自覚することもない。未来に対する予測もない。あるのは明確な形をなさない自意識。そして、それが眼の前に広がる風景に溶けこんだ、未分化な己の存在。ゆるやかに変化してゆく情報構造の中に、時として、おぼろながら己の認識が浮かぶことがある。しかし、それは決して一点に集約してゆくことはない。
 世界の中に溶けこんだ状態では、己を認識する必要はない。ただ、世界が変化するのに合わせて、水のように己を変化させてゆけばそれで良い。それが自然だと思える。不必要な枠の中に己を当てはめ、苦しんでいるのは人間だけだ。なぜ人間だけがこの定めを負うようになったのか、私にはわからない。
 灼けた大地を歩き続ける。陽は容赦なく私の上を照らし続けている。見上げれば、何もない青さ。虚空には強烈な光点が一つ。ゆらぐ地平。熱い砂。そして自分の影。
    
 不意に、物音が消える。
 荒野に、私はたった一人、佇んでいる。
 猫はどこへゆくのだろう。
 わからない。おそらく、どこまでもゆくのだろう。この先、ゆきつけるところまで。
 私はどこへゆくのだろう。
 わからない。おそらく
 私もまた、どこへゆくのかわからぬままに生きてゆくに違いないのだ。この仕事が、本当に人間の役に立っているのか。本当に人間を幸せにしているのか。そう考え続けながら、どこまでも割り切れないものを持ち続けながら、生きてゆく。そんな気がする。
 それでいいのだ、とも思う。
 その疑問を持ち続けることができるかぎり、私は自分を見失うことはないはずだ。そのことが,いつか何かの役に立つのかもしれない。何の役に立つのかはよくわからない。 不意に、視界の隅に何かが点滅する。
 時間が来たようだ。
 離脱。視界が歪み、霧の向こうに消えてゆく。体が左に回転している。思わずバランスを取ろうとする。錯覚だとわかっていてもだ。錆色の味覚と嗅覚が瞬間的に頭の中を駆け巡ってゆく。あまりうまくはない。疲れが消えたわけではない、とわかる。
 すると、もう見慣れた部屋の中にいる。冷たいヴァットの中で汗をかいている。自律神経系の遮断が効いていなかったようだ。
 ヴァットから起き上がり、汗をふく。
 次のクライアントがセッティングを待っている。事故による大脳皮質一部損傷者の、サポートシステムの設定。前回に機能検査を施行済み。言語中枢野、および聴覚中枢野の一部に脳血管障害による変性有り。ブロックナンバー6S73130から6S89750、実質オペ時間は4時間27分45秒。
 すぐにオペスーツを着込み、ヴァットへ戻る。
 セッティング開始。チェック終了後そのままオペレーションモードへ移行。
 SYSYTEM ALL CLEAR
 OK
 WE GO
 猫の姿が脳裏に浮かぶ。それが一瞬にしてかき消された後に、データの嵐の真中に私はおり、そして
 ---- 荒野にたった一人、佇む自分を発見する。
 私はどこへゆくのだろうか。


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