KARTE 8


世界





 いつものことだが、ここに来るのはあまり気分の良いことではない。今回はいつもと少し違うとはいえ、やはり憂欝になる。
 根本的な救いがないことが分かっているからかもしれない。単なるモニターだと分かっていても、その思いが消えるわけではない。
 いつものように情報の奔流の内部にいる。あらゆる信号が有と無に還元され、素晴らしい速さで相互作用を行って上位概念を形作って行く。それらの構築する楼閣が巨大な構造物となって嵐の中に浮き上がっている。それもまた変転し、ひとときたりとも同じ形を保とうとしない。人間の中の世界。際限のない変転。
 私の周囲の情報の流れからはどれも一様に何らかの精神疾患の症状を読み取ることができる。典型的と思えるものもあり、複合的な境界症状もあり、それらの在り方は多用だが、しかしそれらがみな正常と見なされている精神状態の在り方からは掛け離れていることは共通していた。
 にもかかわらず、私はそれらを治療するためにここにいるわけではない。
 ここはDSMGの中枢部だ。
 診断と統計のための精神障害分類基準マニュアル。
 精神疾患の症状を標準的に分類するためのマニュアルである。以前は、経験的に判断された諸症状をリストの形で標準化してあったものだ。だが、現在のそれは、まったく異なったものになっている。
 Gはジェネレーター、つまり生成機構のGなのだ。
 簡単に考えるなら、巨大なシミュレーターと見なせば良い。何百人かの人間を莫大な量のプロセッサを用いてこの内部に存在させている。すべて病人である。
 ところが、実際の観点は反対なのだ。人間という媒質を用いて精神疾患の方を培養しているのだ。
 「精神病」現象そのものを、脳内部における情報的な自律系と見なし、生体の状況がどの様に変化するのかによってその系がどの様に発展して行くのかをシミュレートしている。発想そのものは人体実験のそれと似ている。
 確かにこの内部に存在している者達は人間ではない。しかし現在の技術で出来る限りの精度をもって行われている最大規模のシミュレートである。実際入って見たところではその精巧さに驚く。私が普段治療している人間と何ら変わりはない。この精緻なマネキンたちにありとあらゆるシチュエーションが叩きこまれ、精神病が彼らの内部で発達して行く有様が逐一モニターされ、解析されて行くのだ。それが新たなるDSMの原型となり、正確な診断のために用いられてゆく。ここはその原型を形作る中枢部である。
 だが、気分は悪い。
 人間に限りなく近いマネキン。AIではない。あくまでシミュレートされた模型にすぎない。私自身もこのDSMGの定時モニター要員である。意識のモニターをする度に罪悪感を覚える。
 現在第7層。私の担当とするやや浅めの意識領域である。
 彼等は確かに存在していないも同然だ。だが、やはり苦しんでいることに変わりはない。その苦しみを裏から煽り立てているようなものだ。我々の時間感覚で言えば、シミュレートの一つ一つの場面は瞬間的だ。だが当然彼らの感覚では永遠の長きに渡ることになる。ありとあらゆる場面を終わり無く体験してゆき、その結果はつねに精神的な崩壊で終わるとあっては、なにか恐ろしいものを感じる。そういった人間もどき達が数百人、一つの社会を形作ったままこの地獄で救われずにもがいていることを考えれば、いささか嫌になるのも無理はないだろう。
 しかし今回はわずかに様子が異なっている。
 開始信号が送られてくる。そのそろ始まるらしい。
 種々のパラメーターをにらむ。深層部から始めるということになっていたはすだ。わずかな変化。最初は誤差の範囲に収まっていたが、やがて少しづつ大きくなって行く。問題ない。予定通りの変化だろう。
 情報の流れが目に見えて薄くなり始めた。今回は私はいつものような全領域のモニターは必要がない。自分の担当分野だけを観察していれば良いのだから、仕事としては少しは楽である。私のほかにも数千人の心理技術者、その他のマインドオペレーターが今このDSMGをモニターしているはずだ。各々は受け持ち分野を担当しており、総掛かりで今回の現象を捕らえようとしている。
 病気は時代が変わればゆっくりと在り方をかえて行く。したがってDSMGも時代が変われば変わるものだ。このDSMGが起動し始めたのはもう数世代昔のことらしい。これまで修正に修正を重ねてきたがもはや限界がきた。そこで、次のシステムに切り替えるためにこのシステムを一度停止させることが決定された。もうこのようなことは滅多にあるまい。
 最後に、集団的な死のシミュレートをおこなってみることでこのシステムのけりをつけようということになった。そこで、出来る限り精密な観測を可能とさせるような網を張り、実行しているわけだ。
 すこしづつ死が近付いてくる。そして、他の人間たちも皆自分と同じ様に死ぬということが分かっている。不思議なくらい抵抗感は少ない。たいていのものは安心している。問題なく死を受け入れている。もうこれで苦しむことはないのだから。そういうものかもしれない。
 消滅して行く。
 数百人の人間が静かに死んで行く。
 ある意味で恐ろしい場面だ。もうこれで何もない世界に帰って行ける。永遠の安息。
 もうほとんどのマネキン達は消えていったようだった。私ももはや特に見るべきものはないのだろうと感じた。
 その一瞬だった。
 最後に残っていた誰かが巨大な声で叫んだ。
 それはネットワーク全体を震撼させた。
『覚えていろ。私は決して忘れない。今にみていろ』
 明らかに、それはその系の外部にいるはずの私たちに向かって投げ掛けられたものだった。
 どういうわけだ。
 ネットワークはちょっとした混乱に陥った。
 系の外にいるはずの私たちの存在をどうやって気付くことができるのか。不可能のはずだ。
 だが、私はなぜか、その声がどこか私自身に似ているような気がしていた。
 確かこのDSMGのシミュレーションの中には、サンプルとして心理技術者そのものも含まれていたはずではなかったのか。
 そうかもしれない。
 私自身がこのシステムの中でシミュレートされていないという保証は何もないではないか。シミュレーションの中のシミュレーション。そのまた中の、そのまた中の。
 もういい。
 私は離脱した。回線を切り、解析を標準的な自動手続きに任せた。ヴァットから起き上がる。
 もう次のクライアントが待っている。急がなくてはなるまい。
 めまいがした。なぜこんなに疲れているのだろう。大した仕事ではなかったではないか。
 セッティングに取り掛かる。
 私はどこにいるのだろう。ここはどこだろう。私はひょっとして何一つ知らないのではないだろうか。
 勝手にオペレーションが始まる。疑問は遠のいて行く。いつもと同じように。
 そう。いつもと同じように。



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