KARTE 9-a
シンドローム
§1 personal
この種のクライアントを前にするとき、常に心の隅に引っかかることがある。
私は本当にこのクライアントを「治療」しているのだろうかと考える。
私の周囲には情報が嵐のように飛び交っている。何千万、何億もの意味が電光のように交錯する。ぶつかる。砕け散る。破片が融け合い、論理の枝が瞬間ごとに分化してゆく。からみあう。別な何かを生み出してゆく。その背後で、意味をなさない無数の情報の断片が渦を巻く。
私は心の全てをそれらに向けて解き放ち、億兆の手綱を操る。果てのない作業。
意味の網。
あらゆる感覚末端から入力される、すべての外界のデータのミックスメディア。それに加え、内部生成される様々な心の階層の情報群。一瞬たりとも静止してはいない。
この嵐が、いま私がオペを行っているクライアントの精神そのものだ。私の肉体は、どこか別の世界で恒低温ヴァットに横たわり、沈黙している。精神だけがバックアップの助けを借りて遊離し、クライアントの中枢神経系に入りこんでいる。CNS中に流れる情報を走査し、モニターしながら同時に改変を行っている。ニューロンの閾値変更や、シナプスの増強、縮小、など生理的な微細部分に手を加えている。内容的には、通常のオペレーションである。
だがクライアントの性質が異なっていた。それがこのオペをいつになく違った雰囲気にしている。
Pシンドローム。
データベースを呼び出せば、こんな情報が心の中に浮かんでくる。
遺伝子疾患の一つ。6番目の染色体が、減数分裂時に分裂異常を生じ、結果的にそれが3つ以上存在する『6トリソミー』が原因のことが多い。細胞そのものが、通常と微妙に異なった組成を持つ。細胞内代謝に関与する酵素の異常の蓄積効果により、様々な指標において正常からの偏異を示す。特徴としては、特有な顔貌および四肢のわずかな奇形、特有の皮膚紋理所見、そして中枢神経系での代謝異常による精神発達遅滞。さらに多くの患者は、心疾患、中耳炎、屈折異常、弱視などを合併症として持っている。
Pシンドロームには、他にも病理的な特徴が指摘される。体の成長が著しく遅いか、あるいは不完全なものが多数を占める。病原菌類に対する抵抗性も異常に低い。さらに致命的とも言えるのは、多くの食物に対してアレルギーを持つことだった。母乳を始めとしてほとんどの食物を受け付けない。したがって彼らを生存させてゆくためには、常に点滴、チューブでの栄養分の補給が必要となる。結果として、消化器管は発達せず、恒久的な外部からの栄養補給が図られる必要がある。そのため彼らの中には、Pシンドローム専門の特殊療育センターに集められている者もいる。そういった重症患者達は、その中の無菌保育器の内部で人生の大半を過ごすことになっている。
あらためてこう表現すると、一体どういうことだろうと思う。彼らが本当に生きてゆくことができるのか、私もかつては疑問に感じていた。実際、彼らPシンドロームのかつての平均寿命は大変短かったと記録されている。だが人類全体の平均寿命が延びて行くのにつれて、彼らの寿命もまた延びて行った。このことは、障害自体が寿命の決定要因ではないことを意味する。
それはそれで確かなことに違いない。しかし。
ヴァットの中で無為に過ごす日々の果てに、クライアントは何を待つのだろうか。彼らにとって生きるということはどういう事なのだろうか。生まれてから死ぬまでの間に目にするものは、ヴァットのキャノピーから透けて見える白い天井だけとは。どう考えればいいのだろう。
その状態を少しでも解決するべく、生存と非生存との際どい境界に存在することになった彼らに対し、これまでにある試みが行われてきた。
直接知覚入力機構を設定し、仮の外界認識をさせようというものである。疑似的な世界を感覚入力し、その世界において成長してゆくことで自己実現を図ることが考えられた。現在では最重度の患者の中には肉体は特殊ヴァットに保存しておき、データネットワークの一部分の『コロニー』に精神をおいている者もいる。
個人の存在はその個人にとってかけがえのないものであり、それはどんな立場の人間にとっても当てはまる。我々と全く同じものでなくとも、彼らにとって自己実現を図ることのできる世界ならば、そこに彼らを行かせることは意義のあることではないのか。そういった考え方に基づいている。
かなりの反発があったことは事実だ。それは彼らを閉鎖した世界に閉じ込めることにつながる。障害者を社会から隔離する手段の一つにすぎないのではないか。仮にそうした世界で適応したとしても、それが現実の社会で何の役に立つというのか。確かに、何の役にも立ちはしない。電子的な感覚入力が彼個人の世界形成に役立ったとしても、それは彼以外の何者にも影響を与えはしない。一生夢を見て生きているのと似ている。
だが、現にヴァットの内部でなければ生存できないという患者がいる以上、その事実に対して議論するのは間違っていると思われた。現在では、重症のPシンドロームの大半はこの直接知覚入力機構を保持し、電子的コロニーに生活している。
実際の場面においては、この症状は診断が早い。全てが胎児期のうちに判別している。生まれた瞬間からオペレーションにかけられる。スクリーニングが済むと、まず生体CNSに補助機器を植え込む。次に感覚器官の補正、整形。そして器質的にもっとも適合した形での認知形態への誘導、さらに細胞内の代謝補正を行う。心疾患など、合併症の治療も行われる。それが終わると、新生児プログラムに応じて感覚情報を適切に与え、発達を促してゆく。
ところがこれだけの治療を行っても、やはり発達は遅れる。年を経るにしたがって正常者との差は開いてゆく。どういうわけかわからない。私の周囲の情報の様相も、通常とは異なるものが感じられる。何かがおかしいということがすぐにわかる。微分意味サンプルを流すと、下位の意味融合が上位概念の産生をしていない事がわかる。したがって情報構造体も一つ一つの要素の結び付きが弱く、また論理高度も低い数値にとどまっている。特有の平行移動的なすり代わりによって抽象概念が生まれない。あるいは生まれても孤立してしまうためにすぐに消去されてしまう。
その結果がこのオペレーションだ。
33才、男性。肉体そのものは10才の段階で成長を止めており、すでに老化の兆しすら見られている。首筋に一目でそれとわかる太いジャックが2つ見える。コロニーと彼をつなぐラインである。彼は出来るかぎり外界に生活しているが、体調が思わしくなくなるとネットワークに入り有機体を治療している。重症のクライアントだ。
数日前から体調を崩していた。原因は不明。今朝、突然錯乱状態に陥り、意識を失った。スキャンの結果は意識レベル深度40まで混乱。かなり深いところまで異常をきたしている。通常の神経症がレベル10以下にとどまっていることを考えると、この値では器質的な異常の可能性がある。恐らく補正ユニットの不調ではないだろうかという気がした。
総合カルテを見たところではとくに問題はない。典型的なPシンドロームの治療方法である。情報処理偏差に応じた補正ユニットの選択も一つ一つチェックしたが正確だった。中に入ってこうして観察したところでも、セッティングの不良によるぶれやぼけは感じられない。つながるべき部分はきちんと融合しており、分離部分の絶縁性も完璧に近い。全体の様相に特有の色づけがあるようだが、この手の人工機器をスキャンする際の特徴であって特に異常ではない。
クライアントのオリジナルの生体CNSには幾つかの異常が観測されている。補正したはずの細胞内代謝が元に戻っている。その結果シナプスは情報伝達の効率を落としている。ニューロン自体も変質しており、反応閾値の高くなっているものがほとんどだ。部分的に機能していないものもある。
かつての私自身によるオペのカルテを確認するが、大きな異常は記載されていない。
ただ一つ、短期記憶拡張RAMからダメージメッセージが出ている。これは前回のスキャンで確認済みだ。予備の識閾下用の高速メモリーを回すことで、対策はすでに立てられている。ハードウェアとして他の部分との適合性がない機種のようだ。システムの他の部分に負担をかけている。ここの交換も急いだほうがいい。カルテにチェックを入れておく。切り離し、その他の部分のチェックを行う。
何が原因なのだ。
CNSに植えこんだ補正用の機器の選択に問題があったのか。この生体への適合性がなかったのだろうか。しかし、それならばどうして今まで正常にやってきたのだ。これまでの数回の微調整においては、異常の予兆などどこにも現れなかったではないか。一つのユニット当たり数百というパラメーターを一つずつチェックしてゆき、考えるかぎりの、最高の状態に保っていたというのに。
何かがおかしい。私の見落としているところがどこかにある。
有機CPU群にあらためて作動確認を行う。それらは頭頂葉の皮質層の表面から、辺縁系の半ばにかけて埋め込まれている。もし肉眼で見ることができるのなら、それは脳の表面に張り付いた巨大な白い蜘蛛のように見える。その足からは、細かいラインが無数に伸び、薄く葉脈状に脳を覆っているのがわかる。実際には蜘蛛の足は大脳内部の神経核にまで達しており、このクライアントの歪んだ情報処理系を、標準化された『正常』範囲に補正する役割を果たしている。
この補正ユニットの容量が足りないために、意識内部において補正情報と非補正情報の二重処理が生じて錯乱したのではないか。それとも何かの理由によりCPUのどれかが働かなくなっているのか。CPUにデータを送る回線が、外部からの衝撃で断線していることも考えられる。
いったん全てのシステムを凍結しCPUの動作確認を行う。情報検索範囲を個々のCPUに限定、縮小する。標準サンプルデータをながし、それが正規の処理をなされて出力されるか確かめた。
空間認識処理をなされたクライアントの情報処理機構において各部分が同時に検定されている。目まぐるしいデータの移行が私の中で行われている。空間に点在するちらちらした『苦み』は微細な論理矛盾を伝えているが、当面の問題には関わっていない。やがて個別のユニットごとに空間のあちらこちらに『正常』のサインが表示され始める。間髪を入れず、ユニットごとの相互作用の検定に入る。膨大な組み合わせ数を、私は意識の片隅でちらりと認識する。 この作業をCPUの数だけ繰り返し、さらにいくつかのブロック単位においても繰り返す。
終了。すべて正常に機能している。
CPUそのものに問題はない。では周囲の生体組織とのインターフェース部分はどうだろうか。つまり蜘蛛の脚の部分だ。
ラインを一つ一つ押さえてゆく。皮質に仮想刺激を与え、それがCPUに送られてくる過程での変質を見た。全体的にやや、入力/出力比に減衰がみられた。だがこれが原因なのか、それとも異常事態に陥ってからの波及効果の一つにすぎないのか。私には後者のように感じられた。これだけの異常を起こすには変化の幅が小さすぎる。
機器には問題はない。
だが、どこかに問題があるはずなのだ。
考え方を変えることが必要なのか。
私はもう一度すべてを洗い直そうと考えかけた。
ここでシステムから警告が発せられる。
このままの変異率で変質が進行した場合、一時間30分後に中枢神経系の機能が崩壊する可能性が80パーセント。速い。これ以上時間を費やすわけにはいかなかった。原因を突き止める前にとりあえず補正の必要がある。
オペレーションモードへ変更。データは十分集まっている。自動設定に任せた。予想時間が表示される。2時間7分12秒。長すぎる。手順いかんによっては間に合わない。
手順表示。複雑なラインのからみあいが浮かび上がる。最初の座標同定は、機能単位が正常の標準系と異なっているために意味がない。削除。それに至る、幾つかの手順が消える。さらに基本設定はトップダウン方式だったが、これをボトムアップに切り替えて所要時間を見る。基本的にオペの最中にも症状は進行する。したがって情報構造体の表層部から修正を始めては、深部の変質による上層への波及をカバーできない。いったん変質部の底まで降下して、そこから上昇してゆく。
1時間44分30秒。まだ長い。
手順樹形図中の私の自我分割数を限定した条件を削除する。私の疲労を考慮に入れ、同時に4以上の対象を操作させないようにしていたものだ。並列処理によるオペレーション速度の大幅な高速化により、樹形図の組み替えが自動的に行われる。安全処理速度の指標も無理やり上げる。これを削除したということで私は限界まで絞られることになる。仕方がない。
1時間20分54秒。きわどい。
どうだろうか。気になる幾つかのパラメーターを確認しオペに入ることを決定する。最終チェック、終了。
オペレーション スタート
私は、ためいきをつく。
これで何度目になるのだろう。
クライアントをチェックしながら考える。
結局、今に至るまで原因を突き止めることはできなかった。このクライアントの症状は回を増すごとに深刻になってゆく。補正しても補正しても、その度に数日すると戻ってくる。どういうわけだ。
私は、正直言ってもう手に負えないと感じていた。限界だ。後は長期療養施設に任せたほうがよい。CPU、生体神経細胞、接触部、その他、考えられるパーツにはすべて異常はなかった。これ以上どうしようもない。
私はほとんどあきらめていた。仕方がない。セッティングを開始する。とりあえずいつもと同じように修正を行い、その後すぐに長期治療機関に送ることだ。
忙しく機器を操作しながら、私はぼんやりと考えた。
この状態を、クライアント自身はどう思っているのだろう。
根本的な疑問だった。私のところに来るときはほとんど意識のない状態だったので確認してはいない。すぐに補正にかからなくてはいけなかったせいもある。だが、もともとこの種の変質は本人がどう意識しようと、それにかかわらず生じるものだ。したがってそれほど問題にはならないのではないかと思っていたのだ。
セッティングを続けたまま、表層から深層にかけての広域深度にわたる、連続した内省カルテを呼び出す。
この予想が甘かったことがすぐに判明した。
このクライアントの深層意識はこの変質に対していささかの抵抗もみせていないのだ。つまり、この異常事態を当然のこととして受け止めていた。それに対して必死になって修正しようとしたのは、むしろ埋め込まれた有機ユニットのほうであった。クライアントはそれをむしろ押さえようとする動きすらある。
どうしてこんなことを見逃していたのだろうか。根本的な部分で間違えていたようだ。
最初に異常が生じた時点の記憶痕跡を走査しなくてはいけない。もし心理的なものが原因ならば、そこから解決してゆくことになる。
オペセッティング・キャンセル。スキャニングモード・オープン。意識上部記憶検索。しかしこれだけ変異が進んだ後で、どれだけ正確に再構成できるだろう。
起動する。
最初の結果は予想されたものだった。微かな視覚上の認知的な混乱が、全ての始まりだった。クライアントは、この異常事態に混乱し自己修正しようと試みている。正常な反応だ。混乱自体はわずかなものである。気にしなければそれで済むようなちょっとした錯覚だ。それがどうして全体的な混乱にまで及んだのか。
意識の深度を変えてゆく。おそらく鍵は深層部にある。 記憶痕跡の軌跡がトレース精度の限界近くまで微かになっている。単位当たりの走査速度を10分の1に落とす。ゆっくりと何度も検索範囲を重複させながら潜ってゆく。特におかしな点はない。意識上でも異常事態を客観的に認識し、修正を行おうとしている。
ここまでは異常はみられないようだ。
だが、しばらくして一斉にモニターが反応した。
ある特定の深度に至った瞬間、突然クライアントの態度が変わった。どこをスキャンしても、その深度から先はまるで人が変わったように変質に無関心になっている。
深度分離の二重人格だ。
境界域を探査。深度の特定を開始する。
レベル25。意識野の半ば。これは人工補正ユニットのカバーエリアと一致する。
そこで気がついた。
ユニットとクライアント。
あのユニットはあくまで自覚される意識、つまり意識上層部の情報処理の修正を行うために埋めこまれている。だがあのユニットが、深層の『本来』のクライアント自身にどのような影響を与えているのか、考えられていなかったのではないだろうか。
生体適合をするユニットと言っても、やはりそれは人工物である。ユニットの最小限の機能である認知誘導ですらオリジナルの意識とはかみあわない。まして、これらAIタイプのユニットでは、システムのすり合わせに失敗してしまうと表層自我と深層自我が分裂してしまう危険性がある。すると人工ユニット内部で独立した人格が形成されることになる。
ここを見逃していたのだ。
私が治療していたのはユニット内部に派生した自我にすぎなかった。ある特定の深度を境に、大きく様相が変化したのはこのためだった。
表面上は、『正常』な意識が現れている。しかしその裏では、本来のクライアントが自己実現を目指して活動している。修正の結果として、認知能力も、IQも、運動機能も上がったところでそれは彼自身ではない。そのことを一番良く知っていたのが『本人』なのだ。
我々心理技術者は、ユニットを装着したクライアントを正常と見なしていた。補正ユニットを通じて表現されるクライアントを治療の対象としてとらえてきた。それがあるべき姿と信じこんでいた。その結果、補正ユニットの下に隠れている本来の自我意識を、あたかも存在しないかのように扱ってきていた。
そこに誤りがあったのだ。
そもそも自我意識とは何だったのか。
外界情報を感覚器官が受け取る。感覚器官の神経は脳へ向かい、大脳皮質で多段階の処理が行われる。そうした処理経路において、中間の感覚器官や処理機構が異なればその産出物である意識もまた異なる。意識とは、その処理機構に適合した形のエントロピー凝集系なのであり、必ずしも正常な人間のそれが唯一の正しい在り方ではない。その情報処理システムによって各々異なった表現を取るものだ。したがって、Pシンドロームクライアントの意識もまた、彼ら自身の情報処理系に適合した存在だった。我々が『修正』するといった問題ではなかった。認識の根本が異なっているからだ。
ハード面で見るのなら遺伝子段階での相違に等しい。設計図の異なる機械を無理やり同じ用途に向けるのに似ている。同じように機能しないのは当然といえた。
何らかの補正項を入れて無理やり等価にみたてることはできる。そうだ。実際に我々はユニットという補正項を入れて解釈してきた。しかしその結果として、彼らの在り方が、知恵遅れ、発達遅滞、精神薄弱といった歪んだ投影として我々に認識されてしまうとしたら
根本的に間違っていたのか。
正常な方向への発達と本来の姿への回帰と、その二つの相反する意識が葛藤を起こした。その結果、双方は『正常』な機能のまま分裂し、変質と修正が短いサイクルで繰り返し行われる。表層意識上の情報構造が、度重なる変動に耐えきれず崩れさる。
分離境界付近の意識をリアルタイムですくい上げてみる。
言葉を持たない意識と、言葉を持つ補正ユニットの間で、恐ろしい量の情報が飛び交っている。どちらもが自分の存在を主張している。お互いがお互いを必要としながらも、相反しあう二つの意識。決して溶け合うことはない。
私は何をやってきたのだろう。
統合しようにも、全く異なる特性ではまた不適応を起こすだけだ。しかし、クライアントの肉体は一つしかない。分離して保存するしかないのか。いや、もはや物理的な分離を行うことはできまい。植えこんでからの自動的な配線展開によってラインは分離不可能なまでにからみあっている。どうすればいいのだ。
私の中の技術者の意識が働き出す。
修正しなくてはなるまい。
この場合はすでに指示が出ているように『正常』に修正していかなくてはならない。正常とは、医療基準に定められているような反応特性を満たす状態を指す。つまり、有機ユニットの機能が正常ならば、それ以下の生体器官はそれに準ずるように修正される。それが正しい在り方であり、そうすればこのクライアントは社会に適応してゆける。
そんなばかな。嘘にきまっている。人間の心は、そんなふうに標準化できるような代物ではないはずだ。
わかっていながら、私はオペレーションの準備を始める。今度は根本的な記憶操作から入らなくてはいけない。そうして過去の記憶をすべてクリアーし、補正ユニットに適合した人格を設定する。
---- ひどいものだ。
内心の声をおし殺す。
私は指定された通りにオペを行えばそれでよいのだ。それ以上の責任をおうことはないのだ。
---- 逃げ切れるものではない
わかっている。いやな気分だ。
予想オペレーションタイム。4時間55分23秒。
SYSTEM ALL CLEAR
OK
WE GO
---- だが何かがおかしい。
---- お前はまだ何かを見逃している。
一瞬、そんな思いが意識の隅をかすめる。
機械は私にかかわりなく、オペレーションを始めている。 やがて、意識が沈んでゆく。
>カルテ9-bへ
カルテ一覧へ