公野櫻子(きみのさくらこ)は、最初は一人の、最終的には恐らく複数の
ノベルライターのペンネームである。性別、年齢ともに不明であり、その正体は
現在に至るまではっきりしていない。もともとは当該雑誌の当該企画編集担当
関係者だったのではないかという印象もあるが、あくまで推測に過ぎない。
その正体はさておいて、この公野櫻子というライターこそが、この「シスター
プリセンス」においてイラストレーター以上のインパクトを与えた「キャラクター
独白」部分の作者である。
通常、キャラクター重視のイラスト入りのノベルにおいては、インパクトの
有無の大半はイラストにかかっており、文章はある種の添え物になっている。
しかし、この作品に関しては、その比重は五分と五分、あるいは個人的主観では、
六分四分でノベルの比重が大きい。
ノベルと書いたが、実際には各妹キャラクターの一人称による「語り」である。
小説というよりも断片に近い。はっきり言ってしまえば、物語の体をなしては
いない。起承転結も何もない「意識の流れに近い何か」である。
そして、それでいて、その内容が何よりも破壊的だった。
「お兄ちゃん大好き」
この一文をどれだけ拡大できるか、その人類の限界に挑んだのである。
この世界では、妹は兄を愛するのは当たり前なのである。だから、その好意を
真っ正面から兄にぶつけるのもまた当然なのだ。12人、その全員が全員、目を
逸らすことなくストレートに愛情を30口径で至近距離から叩き込んでくる。
それを避けることは、兄であるあなたには決して許されない。
心のどこを吹き飛ばされようと、あなたは最後まで己の二本の足で立って
いなければならないのだ。
妹たちは、当初の設定では一人一人が独立していた。各妹は別々に暮らし、2ヶ月に一度の「お兄ちゃんの日」にのみ、兄と会うことができる。
この設定は、当初の「連載は二ヶ月に一度」という隔月連載設定に合わせていた
のではないかと考えられるが、企画当初からのあまりの人気沸騰に即座に毎月
連載に変更されたため、その実質的意味はなくなったものと推測される。しかし、
この頻度は一応設定として残されている。
妹は、その兄に会えない間を兄を想うことで暮す。ひたすら兄を想う。なにかと言えば兄である。何かにつけて兄である。ツーといえば兄、カーといえば兄である。生活の中で兄以外のことをほとんど考えていないのではないかと思われる節すらある。
奇麗になるのが兄のため、というのはまだしも、ピアノを弾くのも、料理を作るのも、機械工作を行うのも兄のため、兄を応援するためにチアリーディングにいそしみ、探偵ごっこで兄を調査し、兄を守るためにあらゆるお稽古ごとに励み、兄と一緒に運動したいと、あるいは遊びたいと望み、兄を想って養生し、大きな屋敷に召し使いと共に住みながら兄と暮らしたいと望み、揚げ句の果てには怪しいオカルト呪法で兄を搦め取ろうと試みる。
あらゆる事象について、最終的に兄に向けてベクトルを集束させるこの妹たちの愛情は、ある意味で異常である。異常であるが、それがこの世界の正しい在り方ならば、それが正常なのだ。
この世界では“妹は兄を愛するようにできている”ものなのだから。
極めて当たり前に。
そこに理由はない。
強いて解釈するのであれば、あらゆる愛情を照れも躊躇もなく真っ正面から
ぶつけてくるのは、それが「妹だから」であり、幼い頃を共に過ごしたから
であり、そのために、それがたとえ恋人や配偶者であったとしても、どうしても
「他人」との間に存在してしまうある種の『壁』が存在しないためである。
とまあ、いささか強引に過ぎる展開だが、しかし読者に対して圧倒的な好意を
強烈な香水のごとくふりまく公野櫻子の文章世界に、読者の脳髄は痺れた。
読者は心の底でつぶやく。
「こんなもの、これまで読んだことないぞ」
公野の紡ぎだす「妹の恐るべき好意の塊」を立て続けに吸収した読者は、
大脳古皮質レベルからへろへろになり、そして常に対提示される天広の美麗な
イラストレーションに「パブロフの犬における餌とベル」のごとくにそれらを
対連合させ続けた。
その結果、雑誌読者達の心の中に、現実とはあきらかに出自を異にする一つの
「世界」が成立する。
電撃G'sマガジンに1999年3月から連載された“シスタープリンセス”は、
その直後から熱狂的なファンを生みだし、狂気はここより泉のごとく湧きだした。