こうした展開の常として、連載の当初から家庭用プラットホーム上でのゲーム化が期待されていた。
その第一弾として、2001年春に登場したのがPlayStation用のコンピュータゲーム“シスタープリンセス”であった。
ジャンルが“アドベンチャー”と分類されているが、これにはいささか語弊があるだろう。
冬のバレンタインデーから一ヶ月間を過ごす兄(プレイヤー)の暮らしを、極めてアバウトにシミュレートするものである。
システムとしては、一日をいくつかのフェーズに分けるターン制であり、プレイヤー(兄)の行動選択によって、各キャラクターの「好感度」と「血縁度」の2種類のパラメータが変化し、最終局面でのパラメータの値に応じて“実際に血が繋がっていた兄妹だった”“本当は血が繋がっていなかった兄妹だった”という区別と、内容的に“良いエンディング”“それほどでもないエンディング”に落ちつく、というしろモノである。
さらりと流したが「好感度」はさておいて、「血縁度」とはなんだろうか。
この“シスタープリンセス”世界において、兄には12名の妹が存在する。それはたしかだ。しかし、その“妹”の定義が明確ではない。実際に血が繋がっているのか、それとも“義理の妹”なのか、極端に言ってしまえば我々の思っている“兄と妹”という用語で表現されるような関係ではまったくない可能性すらある。
“天才”公野櫻子は、その間隙を巧妙に突いた。
このゲームでは、兄の行動選択の結果によって、兄と妹との血縁関係がアポステオリに変動してしまうのである。
どういう世界構造なのか、神ならぬ身には想像し難いのだが、とにかく兄が妹をあたかも恋人のように扱う選択肢ばかりを選んでゲームを進行させてゆくと、結果として、その妹は「今まで隠していたけど、実は血が繋がっていなかったの」ということになり「本当に恋人に」なってしまうのである。
一方、実際の兄と妹のごとく、多少は妹をからかってみたり、場面に応じてやや遠ざけてみたりしていると、結論は「実際にも血の繋がった妹であったのだ」という結論が出され、“いつまでも仲良しの兄妹”としてゲームが終了する。
本来、時間的に先に決定しているはずの血縁関係を、後づけで変化させてしまいプレイヤーの行動をコントロールするのに利用するとは、恐ろしいまでの感性である。
さらに、このゲームにおいて特筆するべきなのは、あらゆる局面において、ネガティブな値が存在しないことである。
いかなる選択肢を選んでも、最悪の場合でも“パラメータが増加しない”というだけであり、決して“悪い方向に進む”ことがない。選択を誤ることで、好感度が減少するということがないのである。
キャラクターは、基本的に決して兄に対して怒ることはなく、どのような選択を行ってもそれなりに好意的に反応する。兄に対する好感度は屋上屋を重ねるような性質であり、妹は常に兄に全幅の信頼と愛情を注ぐ。“お兄ちゃん大好き”を連呼する。
例えば、あるキャラクターからのメールを読み、翌日のデートにポジティブな返答をしたとする(なぜか彼女らは少し先のことを考えると言うことをせず、ほぼ常に“明日”の話を持ちかけてくる。兄としてはもう少しそのあたりをきちんと教育したいと思うところだが、この世界では兄は妹に伝えられる見解を激しく制限されているので、なかなかその意図が伝わらない)。その後、別な妹のメールを読むと、場合によってはその妹の強制イベントが発生し、翌日否応なく先約がキャンセルされて(しかも無断で)しまう。だが、そのさらに翌日にキャンセルされたキャラクターと顔を合わせても文句一つ言われない。どうやらそのイベント自体がなかったことになってしまうらしい。
言ってしまえば“トゥルーマンショー”状態なわけで、主人公の振る舞いによってその他のキャラクターの世界認識が後付けで変化するのだ。
また、さらに恐ろしいのは、各妹から毎晩届くメールを“読まない”とそのメールは消失し、そのメールの存在そのものが“なかったこと”になるのである。こんな凄まじいシステムをどうやって実装したのか、ゲーム内世界のエンジニアに話を聞きたいくらいである。
メールを読むか読まないかで、主人公の認識が変わり、それによって世界の構成それ自体が変化して行く。
なんという世界だろうか。
これはある意味シュールなSF世界である。
内容的にも、ゲーム中、嫉妬や怒りなどの負の感情要素や、不幸なイベントなどはほぼ一切存在しない、あるいはしたとしても、それは最後に主人公に対する愛を表現するきっかけエピソードとして機能する程度のものである。
この点は、他の恋愛シミュレーションゲームとは一線を画するものであろう。
実のところ、「ゲーム」という観点から捉えると、この「ゲーム」は、確かに体裁
こそ「ゲーム」ではあるが、実際には「ゲーム的要素」は極めて少ない。プレーヤが
思考して謎を解いたり、レベルを上げたり、といった行為はほとんど存在しない。
ストーリーの進行という概念すら希薄である。その意味では、一般的な意味での
「ゲーム」を期待してこのゲームをプレイすると、期待はずれという印象を受ける
可能性が高い。
しかし(一回でも最後までプレイするとわかることだが)これはいわゆる
「ゲーム」でなくとも良いのである。これは一種の「環境ソフト」であり、ある種の
楽しい生活を送ることを想定した異世界シミュレーションなのであると考えると、
この「ゲーム性の低いゲーム」の存在も理解できる。こうした観点からは、
この「作品」を楽しむためには、むしろ下手な「ゲーム性」などあるだけ無駄
であり、できるだけ「余計な要素」を殺ぎ落とした形での「作品世界」が期待される。
その意味では、このゲームは「ゲーム」ではないにしても、相応の「作品」
たりえているとも言える。
ともあれ、この「ゲーム」は、それなりの数を売り、この作品の知名度は
じわじわと上がって行った。
このゲームの補完的な「ファンディスク」、さらには正当な続編である「シス タープリンセス2」「2のファンディスク」も発売された。構造的には第1作と 大きな相違はない。
この流れの中で、失われた歴史も存在する。
『タイピングシスタープリンセス』というPC用ゲームが、PS用ゲーム1と2の期間に、開発終了後、ほとんど発売寸前までこぎつけて、なぜか発売中止になったという事件があった。
タイトルからしておそらくタイピング練習用ソフトであろうことは想像できるが、しかしそれ以上の内容は不明である。
また、なぜ発売中止になったのかという点についても、発売予定であった会社のWebページにおいて「シスタープリンセスの厳密な世界観と合わなかった」旨が報告されているのみで、正確な情報が存在しない。
しかし、この時にお蔵入りになったと思われていた作画のいくつかが、ゲーム
2のファンディスクにおいて採用された、ということが明らかになっている。
大人の世界というものは、よくわからないものである。
妹たちとの日常生活をまったりと楽しむだけのこれらの「ゲーム」は、確かに従来の固定客相手の商売であったのかもしれない。しかし、その一方で「話のネタとして」手をつけた多くの若者たちを、この世界に引きずり込んだのも事実であった。
そして、メディアミックスといえば、当然“その次”が存在する。