KARTE 2


ロジックシステム





 不思議なもので、人間は遠い昔から病気を撲滅しようと努力してきているが、医者という職業は、いっこうに無くなりそうにない。それどころか、医療技術が発達するにつれて、病気というものもそれに応じて増えてゆくような気すらする。例えば、自然な状態ならば死すべき運命であろう超未熟児ですら、現在の技術は「無理やり」生かしてしまう。貴い命、生命の尊厳、人々はいろいろな言葉のもとに命を救う。しかし、不完全な形で生まれた生命が、その後、いかなる人生をたどるのかを考えるものは少ない。
 器質的な損失を持って生まれたその命は、必然的に心身のどこかに障害を持っ て成長することになる。一方的に命を送り出した人間たちは、その後の責任を負 おうとしない。自分達で救った命を、社会的に生存させる条件を用意しないまま に、無責任と言って良いほどに、次々と命を救い続ける。無理やり存在させられ た生命の中の多くは、社会の中にきちんと受け入れられないままに生存する。障 害は個人にあるのではなく、社会自体、人類自体に存在する。そのことが気付か れることもめったにない。
 人間が長く生きるようになるにつれて、同じ様な問題が現れている。病気、あ るいは心身の衰え、そういったものをカバーするために、様々な医学が発達する。医学が発達する結果、死と生の境が不明瞭になる。長く生きることは、一般的に望まれることなのかもしれないが、それが果たしてどのような形で現実に現れているかを考えると、むしろいたずらに長く生きることよりも、別な方向を向いたほうが幸せなのではないかと感じることがある。薬の投与によって、衰えた代謝機能をサポートし、それによって「惚け」の進行を食い止めている例があるが、その薬自体の副作用が精神機能の別な側面に現れている事を、どう考えれば良いのだろう。
 医療の発達によって、病気は生み出され、それを治療するために医療が発達する。
 矛盾している。まったく矛盾していると思いながらも、その矛盾を覆い隠すさらに大きな矛盾を次々と被せてゆく。いずれどこかで方向を転換しなければなるまいが、それがいつになるのか、誰にもわからない。
 私の前にいるこの患者も、立場は微妙に異なっているが、同じように「生み出された」病の被害者であるという見方もできる。
 様々なカラーリングの巨大な構造体が、私の視覚野の内部に投影されている。部分的には三次元以上の構造をとっているが、直感できる。ちょっとした認知訓練によるもので、これはたいしたことではない。
 人間の大脳皮質および、基底核での情報処理機構を、モデル化して現している。 ベクトルの群れが、絶えず変化しながら情報の流れを表示している。皮質-皮質間、お よび皮質-基底核間の連絡経路が、情報伝達量の大小に従って表現されている。
 ブロックを拡大してゆけば、細かいユニットが現れる。ユニットは、実際には 数百から数千の数のニューロンの集まりである。ユニット一つ一つが、「意味」 を持った情報処理を行う基本の単位である。拡大してゆけば、ユニットを構成す る7つの層の構造と各層の依存関係、ニューロンの単位、さらには個々のシナプスの接続状態にまで遡ることができる。もっとも、私の意識野に投影される総情報量には限界があるために、大まかな全体像をとらえる場合にはそういった微細部分はカットされ、その逆に細かい部分を拡大する際には、外の部分は意識からはみだしてしまう。あまり広い範囲には、注意を向けていられない。
 私はシミュレーターと直接に情報交換を行いながら、直面しているクライアントの、脳の情報処理機構を解析していた。
 変質部をスキャンしている。まだそれほど広がってはいない。
 全般的に、各第一次感覚野は、問題の部分を除いては大きな変化はない。二次 野への投射路にも異常はない。しかし、二次聴覚野である44野の前方三分の一 がやや変質を生じ、そこから情報が伝達される連合野、および前頭葉の第10野 の一部がそれによって影響を受けている。それを逆にたどってゆくと、聴覚野に 収束する。一次聴覚野の部分が、そこだけが抜けたように黒い。情報的に隔離さ れ、外部との接触がない。他の脳部位とは、通常の意味での相互作用は一切行っていないようだ。
 拡大する。何も見えない。さらに拡大。プルーブ信号を投げ、表面と内部から のエコーを観測。可能だろうか。繰り替えす。
 数百回の試行の後、得られたデータを合成解釈する。微かに「漏れ」があり、 内部がうかがえるようだ。そこには、生物学的につくられた自然の生体情報処理 機構とはまったく異なった、いわば幾何学的な鋭さを持った印象を与える工場の ようなものがある。得られた情報に対して因子分析を行っても、生体情報処理部 分との共通因子は抽出できず、直行要素が出現している。
 これが問題の箇所であった。
 これは、何か別なものだ。
 少なくとも、通常の天然の生体システムではなく、またこれまで私が経験のあ る種々の人工システムとも異なっている。初めてみるものだ。
 このクライアントは、ソフトウェアの技術者で、錯乱状態で運びこまれていた。 こんな病気での急患も珍しい。私のところに来るクライアントの大半は、ゆっく りと進行する心の病に対しての対処を求め、それに対して私はオペレーションを 行う。しかし、このクライアントはここに救急で担ぎ込まれた段階で、すでに意 識がなかった。
 普通こうした症状を示す場合には、たいてい脳の器質的な損傷 --- 血管障害、もしくは薬品による脳細胞の破壊 --- を想定するのが普通である。しかし、スキャンの結果では脳血液の流れは正常、脳細胞の萎縮も発見できない。その他、器質的にはどこにも異常はない。精度を上げて繰り返すが、結果は変わらない。純粋なソフトウェアの精神作用での変化であるらしい。私のところにまわされたわけがこれでわかった。
 ソフトウェアの動作チェック中に、突然倒れたとのことだった。それだけでは、何もわからぬ。私は、この男の、「脳 - 精神」系の状況をさらに綿密に把握するため、エキスパートシステムの支援を受けつつ、各種のテストを繰り返した。
 すると、妙なことが明らかになってきた。
 この男は、私と似たようなシステムをその頭の中に設けていた。首の後ろにいくつかジャックがある。その端子は、脳の表面を覆ういくつかの層からなる人工的な膜につながる。膜から、無数の微細な針のようなものが脳の内部に差し込まれている。それぞれ、うまくニューロンを破壊することなくして、ニューロンよりもさらに細かい針が、網のように脳の中に張り巡らされている。液性情報も扱っているらしく、中空のマイクロチューブもいくつかうかがえる。
 さらに、男の脳の中には、一部に情報的に隔離された部分が存在していた。本来ならば一次聴覚野の働きを受け持ち、音を再生するシステムである皮質の部分が、周囲から隔離されている。外にも、補助運動野、連合野、前頭前野などの一部が同じように隔離され、独自の処理システムを形成していた。
 テストの結果が解析されるにつれ、さらに状況が明確になる。これは、人工的なシステムであった。ソフトウェアをつくる際に、自分の大脳皮質の一部分を、その機能を最小限残した形で、情報的に隔離し、その閉鎖されたシステムの内部でソフトウェアの保持、およびチェックを行っていた。その区域の周辺のニューロン同士のシナプス接触をアセチルコリン分解酵素のようなもので阻害し、その代わりに、他の部分の電気的なパターニングによるシナプスの改変を行い、バイパスを設けてある。閉鎖区域では、ニューロン接続を化学的に操作し、外部コネクターを通じてコンピューターと接触するインターフェース部分を設け、その下には脳のシステムをそのまま生かした「ソフト培養槽」的な機構が設けられている。この手の人種の最近の“はやり”らしい。
 むろんそれを埋めこんだ「野」に対応する機能は使えない。このクライアントの場合は、口を動かして言葉を話すという機能は失われていた。対応したコンピューターのバックアップがあれば音声をだすことも可能であったのだろうが、クライアントの過去のデータを調べて見ると、対人接触を回避する傾向がうかがえる。人と会話を行わないで済むことはむしろ楽だったのかもしれない。
 このシステムでの利点とは、第一にソフトを盗まれないことだが、それよりも大きなものがある。「意識」しなくとも、仕事が進められるという点だ。本人は何もしていなくとも、いや、自分では何もしていないように思えても、作業は確実に進んでいる。無意識に仕事を任せている。オートマチックだ。
 どのような仕組みでソフトウェアの作成が行われていたのかは、定かでない。網状になった不安定な論理鎖に、脳幹網様体からの賦活インパルスの投射を振動として与え、低エネルギー駆動回路へと収束させてゆく、といったものだろうか。内部でどのようなソフトが作られているのかはわからなかった。すでにメーカーが、ここに運びこむ前にすくいとっている。企業秘密だという。
 病因は主に聴覚中枢にあったが、そこは人工システムに置き換えられているのだから、病巣にはなり得ない。むしろ、病巣は、そこを除いた全てであるといってもよかった。人工システムの存在が他の部位に負担をかけさせていたのである。
 ふだん、無意識というものが、あたかも存在もしていないかのような印象を与えるのは当然のことかもしれない。ところが、実際は無意識という部分は、莫大な情報量を処理している脳全体の投影であり、意識とはそこに浮いた微かな島のような存在にすぎない。無意識に任せてオートマチックで仕事をこなしてゆくと、どうなるか。一見便利なように思える。また実際最初のうちは便利なものだ。自覚はないが仕事は進む。
 しかし、しばらく----それがどのくらいの期間を示すのか、定かではないが----した時点で、無意識領域での情報処理が、欠けた領域の分だけオーバーフローしてくる。ふだん無意識のうちに行っている様々な判断が、意識を経由していないと行えなくなってくる。本人は、少し疲れたのだろうという具合に感じる。そのうちに、いろいろな面で、心の機能が衰えてくる。注意不足になる、記憶の検索が遅くなる、運動機能も鈍くなる。普通の疲れならば、眠るなりして休みをとれば解決するが、この場合は眠っている場合でもソフト作成は行われるため、休むことも解決にはならない。奇妙な「疲れ」はたまり、精神機能が正常でなくなってゆく。その正常範囲からの逸脱がある一線を越えれば、誰かが、医者か技術者のところへ担ぎ込んでくる。最近現れだした「職業病」の一つだ。
 シミュレーターに接続したエキスパートシステムに、正常化への手順組み立てを任せる。チェック。手順流れ図が表示される。今日は補修のために、3、9番の入出力端子の代わりに予備の53番を使用するという条件入力が欠けている。再計算。
 別の図が現れる。所要時間、4時間26分37秒29。実質補正時間は3時間56分11秒08。その差の時間は、初期設定および術後監視モニターの設置、没入と離脱などにかかる時間となる。深度は37。総移動情報量、約740億情報単位。のべニューロン数にして1億8千万、シナプスで計るとすると100億内外である。同じ場所を繰り返し改変するために、かなりの量になっている。多重改変範囲が広くなっているが、仕方がない。時間パラメーターを最優先させた結果である。現在の私の精神状態を測定したバックアップシステムが、それ以上の長時間オペレーションには耐えられないと見たのだ。もっとも逆に、その時間以内ならば、限界まで作業を行うことになる。
 おおよそはこれでよい。あらためてオペレーションシステム全体のチェックを行わせる。3、9番の「シミュレーター オペレーターヴァット」間の入出力端子に、使用不可の表示がでている。確認済みだ。後は、コンピューターコンプレックスを冷却するための液体窒素ダクトの流量微調バルブだが、今回のオペには支障無しと判断し、放置する。いくつかのコード類の捩れ、折れ曲り、プラグの詰めが甘い、などが発見される。いずれも大きく影響するものではない。即時修正する。
 再チェック。警告は出ない。その代わり、無機質なメッセージが最後の覚悟を決めろと促す。
「CONTACT?」
CONTACT OK.
「SYSTEM ALL CLEAR,OK?」
OK.
「GO.」
OK. WE START.
 オペレーションが始まる。
 部屋中のロボットサポーターが一斉に動きだす。壁、床、天井、あらゆるところにコンピューターにつながった機械の眼が光る。ここには、私のほかには一人の人間もいない。
 無数のアームが患者を巨大な円筒内に設置する。同時に、様々な機器がその働きを開始する。コードが何百とつながったヘッドガードが降りてきて、頭部を覆う。初期設定が開始される。一方、私自身にも準備がある。オペ用の「スーツ」に着替えることになる。機械の鎧の内側に通気性のラバーが詰められており、電極が無数に設けられている。代謝系、呼吸器官系のサポートも行われ、そのための排出物処理機構、マスクパッドなどもある。
 私はぎくしゃくしながらその中に入り、点検を行う。いくつかの電極が、定位置より大きく外れている。体を動かし、落ち着ける。ヘッドギアをハーフの状態でかぶり、首のコネクターをさしこむ。頭部を開けたままで、私はその服を着たままさらに棺桶のような恒低温ヴァットに横たわる。低温といっても、たかだか摂氏10度程度だ。冷凍睡眠を行うわけではないので、これでよい。私が快適な温度なのだ。
 私が横たわると周囲からアームが伸び、微妙な位置を修正する。スーツ表面の皺を取り、固定する。カメラからとらえた自分の姿が視野の隅に映し出されている。ふたが閉じ、同時にヘッドギアが頭部を覆う。首のコネクターが、がっしりと食い込むのがわかる。服とふたの無数の接点が、いっせいにかみ合う。私はもう、身動きがとれない。
 私の脳の表面を覆う伝導質の多層膜から、幾つかのチャンネルを通して脳の働きがモニターされ、コネクターをとうしてシミュレーターへ送られ、再生される。私の意識は体を抜け出し、システム内に仮定された空間の位置に存在し、クライアントの「心」を直接にとらえ、改変  すなわち治療  を行う。
 今、目の前に「見え」ているのが病因だ。自然の脳に組み込まれた人工の情報処理システム。根本的にはこれを取り除かないことには解決できないが、本人の承諾が取れない以上、そうはいかない。とりあえず、実際の変質部を修正して行く。
 情報構造体の深部をスキャンし、最も深い変質区域を突き止める。そこに至るまでの直系の上層域を、変質の有無にかかわらず、すべてクリヤーしてしまう。上からそこに治療機構の「足場」を作って行く。シナプスを改変し、論理構造の異なったコンピューターシステムとの接点を作り上げる。治療システムを脳内に作り、次第に深く掘り下げてゆく。やがて、病巣の最深部に達したら、生体情報処理機構としての正しい方向に修正する。そこを後に、上のほうに向かって順番に修正しながら上昇する。
 一つのユニットの修正は、他の何百、何千ものユニットへ影響し、その影響した結果がさらに拡大して伝わってゆく。そうした複雑なからみあいを、一つ一つ解析して、万一、相互作用が抑えきれずに、系が暴走することの無いように、極力ていねいに作業を行ってゆく。
 体全体が意識と化した私は、巨大な情報構造を操作する。私の心の中で、恐ろしく複雑なパズルが一秒間に何百回、何千回と解かれてゆく。そんなときの私は、一つの純粋な情報処理の機械と化している。自分で言うのもおかしなものだが、とても人間とは思えない。
 最深度はレベル37、その部分の情報座標系は567、889、037、一般表示では聴覚中枢3272ブロック。ユニットナンバー、2H24660。器質異常は認められないため、座標は一般規格をそのまま用いている。他に変質部が偏在しているため、意識を処理の量に比例して分割する。その全てに別々の意識があり、各々がリアルタイムでつながっている。よく考えれば不思議な状態なのかもしれないが、私は深く考えないことにしている。
 潜る。力場の影響および、ホルモン合成システムからの「輸血」により、私が作業を行う範囲のシナプスが働きを止める。その状態を次々と情報構造体の内部で降下させてゆく。
 レベル25。26。27。さらに降下。
 実際の脳への現れは、別に下に潜っていることになるわけではない。論理的な深部が必ずしも脳の深くにあるわけではないからだ。皮質から皮質への伝達や投射径路、ホルモンの分泌、その影響とフィードバック、そうしたものを計算しながら脳のあちこちを改変してゆく。情報処理の投影では、論理的な深部へ「潜って」ゆくことになる。
 レベル37。とうとう最深部へたどりつく。変質の周辺部では、正常域と変質域は霧のようにかすみ、ユニットの幾つかにまたがって混在している。明確な区分は存在しない。その霧を微視的にとらえるならば、ユニット内の情報処理の様相が、高速で変化してゆく様子をとらえることができる。フィードバックを繰り返す情報により、回路網が、従来のパターンとは異なった形に変化してゆくのがわかる。 脳の中では、パターニングによるシナプスの選択強化、および消去が高速で行われている。使用したいシナプスに情報を流し、繰り返すことでシナプスの肥大化をはかる。一方では、使用の必要がないものにはアセチルコリンでのデジタル的伝達を阻害するために、分解酵素を誘導する。情報伝達がなされなくなったシナプスは、自然にやせてゆき、消滅はしないまでも、萎縮してしまう。この繰り返しによって、必要な情報処理機構を構成するための回路を組み立ててゆく。一つのニューロン当たり、シナプスは数百から数千。先は長い。果てしなく長い。
 一つのユニットの修正が終わる。実質時間15分28秒。しかし、私にとっては、ずいぶん長い時間に感じられる。どのくらいかといえば、これがまたはっきりしない。私にはつかめない。
 休む時間はない。次のユニットへ。
 じわじわと上昇してゆきながら、同時に他方からくる修正結果と整合しながら、場合によっては再び潜り直し、オペは進んでゆく。今回も、パラメーターの予想外の変化により、二回ほど全体調整をやりなおすはめになる。タイムオーバーだ。総作業量の90パーセントが終わったところで、外部時間はすでに5時間を突破している。
 精神賦活剤が注入される。私の心は薬品に支えられている。不健康なことかぎりないが、仕方がない。本当に私の心がおかしくなったと判断したら、サポートのコンピューターが強制的にオペをストップする。そこまで任せてあるため、私はある程度は、むちゃなことができる。しかし、コンピューターに、私の苦しみまで理解してくれとは、とても言えない。
 6時間を越える。終了近い。
 どうにか、正常な反応を示す機構に戻すことができたようだ。さらに、例の人工システムの閉鎖区の、論理の穴埋めをきちんと行う。これを行っておかないと、またすぐに再発することになるからだ。こんな不完全なシステムが、あの厳しいメディカルエレクトロニクスの公式審査を通過しているのかどうか、いささか疑問になる。恐らくハンドメイドシステムではないのか。クライアント本人が同意すれば、いずれ日を改めて、この人工システムごと修正してゆくことになるだろう。
 最後に、私の「足場」を元の組み立てにもどし、次のオペの目印となる、わずかな情報的な刻印を押しておく。オペのデータはすべて記録され、次回のオペの参考となるが、その際の基準系の原点になるものだ。
 オペレーション終了。離脱する。
 私は、コンピューターと薬品に支えられて、ようやく精神的に「立って」いる。いつものこととはいえ、疲れに変わりはない。心の底からの、とほうもない疲れだ。
 私の体に戻る。
 視覚、聴覚などの感覚が、一瞬、歪む。めまいがする。体の感覚が戻る。まだ何も見えない。暗黒の世界だ。
 最後の思考力で、クライアントの術後のためのモニターの設定を行う。すでに支援システムが設定済み。OK.
 すべての接続を断ち切る。後は機械が全てを行ってくれる。
 疲れている。こんな時、その人間の、最も弱い部分がその脆さを露呈する。私の手掛けたクライアントの、過去の失敗例が、私を苦しめる。私は、彼らに償うすべを持たない。闇の中から現れて、私を攻める彼らはみな、私のせいで精神的に歪んでしまった者達だ。
 どうしようもなかったのだ。私は全力を尽くしていたのに。改変時の相互作用の領域を、制御することが出来ずに暴走する脳。急激な意識変化に耐えられずに、その後自殺した人間。取り戻した記憶に衝撃を受け、再び記憶を失い、そしてどんな処置を施しても二度と復活できなかった者。
 異変を察知した意識支援コンピューターが、それらのうねりを押さえにかかる。精神安定剤がコネクターから注入される。各種の感覚パターンが送られる。安らぎに似た感覚が、心に広がる。幻影なのだとわかっていても、安心する。逃げる場所がほしいのだ。心は正直だ。だが、その逃避的な態度が、結局は自分を心の底で苦しめている。そうわかっていてもどうしようもない。
 やがて、意識が消えてゆく。

 驚いたことに、そのクライアントは、頑としてそのソフト作成システムを除去することを拒否した。
 「おっしゃることはよくわかります。しかし、私達には今どうしてもこれが必要なのです。今このシステムを取り除いてしまったら、元も子もありません。このソフトが完成したときには、ここでまたお願いします。もう少しなんです。」
 口のきけない男は、筆談で私との会話を行い、一刻が惜しいかのように出ていった。最終テストも待たなかった。そういう人間もたまにはいる。自分の危険を、過ぎ去った次の瞬間には忘れ去っている。無理もない。忘れてしまうほど、完璧に近く直したのはこの私だ。
 一週間後にチェックを受けにくるようにソフトハウスに伝えはしたが、彼はやって来なかった。その点も、普通の人間と変わりはしなかった。よくある話だ。私もたいして気にはしなかった。

 一ヶ月ほど過ぎた頃だった。同じ男が、今度は完全に意識を失って運びこまれた。
 私は、別なオペ --- これは、てんかん発作を、応急的に発作部分を分離するシステムを構成することで発作の拡大を防ぐというものだったが --- の最中で、とりあえず支援コンピューターにシステムの一部を割かせて、その急患の容体をモニターさせた。前回の症状と同じものだろうか。今回は、病因であるあの人工ソフト作成システムを除去するはめになるだろう。そう、意識の片隅で思いながら、私は目の前の患者のオペを続けた。
 しかし、送られてくるデータを認識したとき、私は当面のオペレーションを一時的に停止し、そのデータに全ての注意を向けざるを得なくなった。
 呼吸、一分間に10回、血圧不安定、不正脈多い、そして脈搏自体が弱い。消化器官系も全体的に弱体、特に胃には穴が開いている様子だ。リンパ系も異常あり。頭部を含めて、体全体でホルモンの代謝も狂っている。体温39.6度、全身の不規則な震え、けいれん、その他、身体のあらゆる機能が異常をきたしている。
 何だ、これは。
 私は、進行中のオペを凍結し、最速で覚醒した。ヴァットから起き上がり、スーツを抜け出す。足がふらついた。頭が鉛のように重かった。キーボードを叩いて、サブシステムをこのクライアントに接続する。繰り返し、あらゆる面からチェックを行う。その結果はさらに悲惨なものでしかなかった。
 意識、完全に無し。脳外傷はないが、皮質および神経核に、微細なクラック的な損傷が広域にわたってみられている。ニューロンそのものも異常代謝の生産物により直接に破壊されている。モードを変更し、情報構造体の表示を呼び出す。それも無駄であった。情報構造体は、ほぼ全域にわたって再生不能、もしくは存在すらしていない。深度は、レベル120まで反応がない。これ以上の深さは自動反射の域に近い。心を司るあらゆる面が、大混乱に陥っている。
 一体、何だというのか。
 脳の破壊の跡を調べる。情報的にあれだけ酷く破壊された脳から逆算するのは難しかった。時間がかかるだろう。予想計算時間、7分。かまわない。計算開始。コンピューターが静かに働き出す。この間に、クライアントの交換が行われ、オペの用意が開始される。私は、汗もふかずにモニターに見入りながらキーボードを叩く。オペの設定だ。急がなくてはならないように思う。
 答えが出る。
 半ば予想どうり、半ば驚きだった。病因は、例のソフト培養システム。しかし、前回は、直接にそこが破壊されているようなことはなかった。その部分の機能を補うための周辺の部位のオーバーワークだったはずだ。今回は違う。その閉鎖区のあたりが、最もひどく破壊されている。予想状況をモニター上にシミュレートする。像がかなりぼやけるが、この条件では無理もない。
 最初に、その小さな黒い閉鎖区内から、ちらちらした何かが壁を破って現れる。影だ。実体ではない。シナプスの改変が高速で行われているために、あたかも何かが動いているように見えている。その何かが、周辺の論理構造に破壊的な改変を及ぼしながら、じわじわと拡散してゆく。あれは何だ。
 その何かは、やがていろいろな径路を通じて、脳の全域にわたってその破壊的な影響を及ぼし始める。恒常性を保つために、様々な非常機能が働くが、そんなものは根本から役に立っていない。むしろ、バランスの崩れたホルモンの代謝は、体全体のコントロールを狂わせ、さらにニユーロンを破壊しつつある。
 変質や破壊が、大脳皮質の様々なエリヤに広がってゆくにつれ、そこに対応する機能は麻痺してゆく。体が動かなくなり、心も変化してゆく。当人にはなにが起こっているのかまるでわからないままだったろうと思う。
 これは一体なんだろうか。
 まるで何も存在しないかのように、あの厳重な閉鎖区のプロテクトの論理鎖をあっさりと破り、心を破壊し……
 ---- これは、何かによく似ている。
 ブレーカーソフトだ。コンピューターの侵入防止システムの論理鎖を破り、システムに侵入してゆく、あの手際によく似ている。オートマチックブレーカー。いや、似ているのではない。ほとんどそのものだといってもよい。
 しかし、これはコンピューターではなく、脳なのだ。人間の心なのだ。
 そうか。
 そもそも、私は、このクライアントが、その閉じたシステムの中で果たして何を作ってきたのか、まるで考えようとしなかった、ということに気づいた。そこを見逃していたということに、今になってようやく思い当たったのだ。
 恐らく、原因はそこにある。
 これだけの破壊を行うことの出来る ---- いや、破壊とは言うまい。それ自身に意思はないのだから。それはただ動いてゆくにすぎない。ただし決して後をかえりみずに---- ような代物は、まずブレーカーソフト以外には考えられぬ。この男は、自分の頭の中でブレーカーソフトを作っていたのだ。
 しかし、普通のコンピューター用のブレーカーソフトならば、人脳に侵入したり、破壊したりはしないものだ。論理構造自体が異なっている。培養巣から出てゆくことはできないだろう。考えられない。だが、これは人間の脳、人間の心を侵している。
 理由は一つ。他に考えられない。
 この男の内部に存在した「物」は、人間の情報処理機構に適合したソフトウェアであったにちがいない。そして、それは、人間の心を破壊することを目的に作られた、「対人用ブレーカーソフト」だったのだろう。
 噂に聞いたことがある。
 人間に対して使用する情報兵器。人の心を破壊する、姿のない魔物。視覚、聴覚、その他のあらゆる感覚を通して、カムフラージュに囲まれて人の中に入り込んでゆく「幻」だ。ふだん、なにげなく目にし、耳にし、感じているさまざまな感覚情報の中に、それは仕込まれている。一つ一つは、小さな断片的なもので、微かなイメージでしかない。それが、一定以上に蓄積され、記憶世界の中で融合しはじめると、自動的に収束を開始し、全体が一つのソフトウェアとして働くようになる。脳を徹底的に破壊し尽くす、見えない虫のようなものだ。だが、脳内をスキャンしたとしても、何も発見できないだろう。相手は物質ではない。情報なのだから。
 当人は、そんな仕掛けをされた自覚もなく、一体何がおきているのかわからないうちに、次第に精神が歪んでゆく。虫の進行はそれほど急ではない。むしろその点が残酷なのかもしれない。時間ともにその人間は狂ってゆく。止めることはできない。そうなった原因すらわからないだろうから。通常の精神疾患に対するどのような治療も無駄に終わるだろう。やがて、錯乱の中で死んでゆくことになる。
 そんな恐ろしい代物を、この男は自分の頭の中で飼っていたのか。育てていたのか。信じられないことだが事実だった。完成し、機能するようになったそのプログラムは、自分で鎖を噛みちぎり、自由になる。やがて、その機能にしたがって、閉じたその世界から外界へ ---- その男の脳の中へ ---- 出ていった。巨大な情報構造体の中へ。自らを生み出したものの中へ。
 自分でプログラムしたソフトに自分が破壊される。
 人間とは、一体何者なのだ。心とは、人間にとってなんなのだ。単なる道具なのか。では人間の本質とはどこにあるのだろうか。私にはわからない。私はただ、一人のカウンセラーとして、クライアントを治療することしかできない。他のことは何一つ確かではない。心に最も近いはずの私のような人間が、いろいろなことを知るうちに、ますますわからなくなってゆくのはなぜだろうと思う。
 虫は、大脳の深層の脳細胞を破壊しながら、なおゆっくりと潜り続けている。このままあの虫が中脳、脳幹、そして脊椎へともぐってゆくとしたら、もう助からない。生命維持機能が破壊されれば、一分で脳細胞が死滅する。再起不能だ。それだけは避けなくてはいけない。
 間に合うだろうか。
 急速にシステムを立ち上げる。視界に送り込まれる、クライアントの情報構造体の崩れ落ちた姿が、一瞬、歪む。私自身も疲れている。だが、支援コンピューターは何も言わない。こんな私を、まだまだ酷使してくれるのか。
「SYSTEM CHECK,CONTACT?」
CONTACT.ALL CLEAR、OK?
「OK」
WE GO.
 意識が沈みこんでゆく。
 長いオペになりそうだ。私はぼんやりと、そう思う。


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