KARTE 5
ライフゲーム
心拍が弱っている。
サポートも長くは持たない。限界が近い。急がなくてはいけない。本来なら、この心臓は6時間前に活動を止めているのだから。
ヴァットの中の老人は、かさばったオペスーツに押しつぶされているように見える。ヘッドギアの装着には耐えられないとの判断で、電極を幾つか固定するのみにとどめている。これでも今回のオペには十分だ。
脳波ホログラムがその形を緩やかに崩しつつある。萎縮した神経細胞に外部からの活性を与えているが、相変わらず反応は鈍い。無理があるのだ。いつものことだが、この手のクライアントが送られてくるのは遅すぎる。ホスピタルでの一連の延命処置の手順上で、予想死亡時刻が3時間を切ったところでようやく私のところに回ってくる。おかげで私はあわててセッティングにかかることになる。
あと1時間35分で限界に達する、との予想がでる。
急がなくては。
いつもとは異なり、ホロモニターを見ながらキーボードを叩いている。モニターに反射している私の姿は、首筋のコネクターのソケットと、背中に束ねられた色とりどりのコードだけだ。残りは薄暗い景色に溶けこんでよく見えない。その姿に重なって、様々な抽象イメージが視野を通りすぎてゆく。
一度に外と内の二つの世界を体験している。どちらも今回はたいした処理量を必要としない。いつものオペに比べれば、仕事としての意義もわかりやすいように思う。気が滅入ることもない。
モニターをにらんで探しているのは、この老人の記憶。その中でも、彼にとって最も望ましいであろう記憶だ。それを見つけて、この臨終に近い老人の中に実感を持って再現するというもの。
ほとんどの人間は、死ぬときに少なからず恐怖の感覚を覚える。そこで、この心理技術が開発された当初から臨終の病人にこの技術を適用することが考えられていた。その患者の最も望んでいる記憶を探りだし、その記憶の中に人間を送り返すことで恐怖をなくしたまま死を迎えさせようというものだ。
ほとんどのクライアントは、死の間際に微笑み、ゆっくりと活動を停止してゆく。安楽死、と表現することもできる。この言葉にある種の抵抗を感じるのも事実だが、それは、むしろこの技術以前の用語の問題であるように思う。 戻ってゆく場所にはいくつかの傾向がみられる。
ひとつは、自分の持った家族のもと。夫婦と子供のいる、本当にごく普通の家庭。まだ自分が苦労していて、そしていま考えれば幸せだった時代。暖かなイメージだ。恐らく、ほとんどのクライアントにとっては、それはもはや過去の思い出にしか過ぎないのだろう。彼らの大半は現在、孤独だ。記憶移植の申請をするものも少ない。
もうひとつは、愛する人間の記憶。だがこれは意外に、少ない。多いのは、子供時代の自分の家族の記憶だ。まだ何も知らずに、両親に囲まれ幸せでいられた良き時代。これがどのクライアントにとっても、一様に幸せを体現できる記憶だという。
中にはその記憶のないクライアントもいる。それでも、人間には、まだひとつだけ帰る場所が残されている。
暖かい闇の中。
胎児は、子宮の中で母親を通して長い夢を見ている。それが人間としての世界認識の始まりだという。そもそもの始まりは夢なのだ。現実とはその夢の骨組みの上にかぶせられたゆるやかな肉にすぎない。幻に生まれ、そして最後に再び幻の中に帰る。ある意味では首尾一貫している。
ここにいれば自分はあらゆる外界の苦痛から守られる。絶え間ない鼓動と、暖かい、暗い世界。何者も自分の存在をおびやかしはしない。最後の避難所。ある意味では恐ろしい。そんな人間は、何のために生まれてきたというのだろう。生まれてから死ぬまで、恐怖だけを感じ続け、母親の体内にもどることだけを無意識に望んでいる。数は少ないが、そうした人間も存在する。
通常のクライアントならば、数分スキャンを行えば見つかるものだ。高速でメモリーを呼び出し、フィードバックさせ、クライアントの反応を観察する。本当に望ましい記憶ならばモニター上に特有のレスポンスがあらわれる。その部分のメモリーを拡大し、時間経過を遅らせ、もう一度クライアントに戻す。意識誘導を行いクライアントの注意をその情報世界に固定する。内部感覚では本人は昔の懐かしい時代にもどって行き、死の恐怖を忘れ去る。
このクライアントは、だが、未だにわからないのだ。
彼は何が望みなのだろうか。
彼の幸せとはなんだったのだろうか。
記憶を片端からフィードバックしているのだが、それらしい反応がみられない。すでに、ほとんどのエリアをスキャンしてきている。始めてから数十分が過ぎている。こんなことは珍しい。家族の元でも、胎内回帰願望でもない。
どこか落とした部分があるのだろう。このアプリケーションは、複数の反応が同レベルのレスポンスを示すと、どれもキャンセルしてしまうという癖がある。ローカルミニマに落ち込まないように、というプログラマーの配慮らしいが、気の使いすぎだろう。人生最良の記憶がそうきっぱりと決まるものではない。
繰り返しスキャンを行う。走査速度を落とし密度を上げる。時間がかかるが仕方がない。
数十分が経過する。
反応がない。
どうなっているのだ。わけがわからない。
このクライアントには、取り戻すべき過去は存在しないというのか。だが記憶喪失を記したカルテはない。どういうわけだ。
思い当たることがあった。ただちにチェックを入れる。
このクライアントは本当に人間なのだろうか。
人工有機構成体ならば、単に入力されただけの過去の記憶などに執着せず、また胎内回帰の願望も持たない。しかし、これまでアンドロイドが直接精神分析技術をごまかすほど巧妙に作られたという話は聞いていない。
解析システムでの結果がでる。
この患者が人間以外の存在であるという確率は.01%以下。否定的である。
これで、またわからなくなった。なぜこの老人は帰るべき過去をもたないのだろう。
どこかが間違っている。
そもそも、死の間際に過去の記憶を必要とするのは、なぜなのだろうか。それは死に対する恐怖感が存在するからだ。だとしたら、その恐怖を持たない人間ならば いや、その恐れというものは、理性でコントロールできるものではないのではないか。
---- そうではない状況もある。死への欲求が、死への恐怖に打ち勝つときだ。
ようやく気がついた。
老人の意識の内部に、サンプルの『死』のイメージデータを流し込んでみる。
暗黒。消滅。静寂。虚無。休息。
即座に望んでいた反応が現れる。
これだ。
この老人の望みとは『死』そのものだったのか。これまでのどんな記憶にも比して、この老人は生まれてからこの方、ずっと死を望んでいたというのか。
だが事実なのだ。だからこそあらゆる過去の記憶を捨て去ってまで死に固執したのだ。その衝動は意識の深層によどみ、テストなどでは明らかにならないものなのに違いない。それが現実の死に際して、ようやく浮上してきたのだ。
誰の心の底にも、それは潜んでいるのかもしれない。生物一般の、無生物への憧れ。原点回帰の衝動。彼がこれまで自殺を図らなかったのは、ほんの偶然だったのかもしれない。
いや、あるいは私も、また。
どうすればいい。
サポートを止め、素直に望みのものを与えるべきなのか。私が心理技術者である以上、私の使命は単に生命を長らえさせるのではなく、クライアントを幸福な精神状態にすることにあるはずだ。しかし、私には……
何もできない。
クライアントの表情は穏やかだ。死が近づくにつれて満ち足りた様子になってゆく。幸福がもはや過去にしか存在しない人間に比べて、現在の安泰の中でその生を終える人間は、より幸せだと考えてもよいのかもしれない。
だが、何かがずれている。
人間は昔から一人で生まれ、一人で死んでゆく存在だった。それが人間というものに他ならなかった。この装置も、その意味では根本的な解決には役立っていないではないか。
いや、そもそも、それは解決されるべき問題だったのか。
ぼんやりとそう思いながら、私はクライアントを眺めている。
心拍が次第に微弱になってゆく。
もはや私にできることはここまでなのだろう。
サイコホログラムは、ゆっくりと、しかし確実にその形を失いつつある。
サポートの限界が近づいていることを知らせるアラームが、どこか遠くで静かに鳴り始めている。
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